■本、著者の情報
<作者>イマヌエル・カント 訳
■主題
「私たちは何を知りうるのか?」というカントの問いに示されているように、本書の目的は、人間の純粋理性が認識しうる範囲とその限界を明らかにすることにあります。
平たく言うと「どのような知識であれば合理性を持って共有しうるのか。いかなる仕組みで共有が可能になるのか」という事です。
ここで言う純粋理性とは、経験に依存せずに真理を探求しようとする理性の働きのことです。
例えば「神は存在するか」「世界には始まりがあるのか」「魂は不滅か」といった、経験によって確かめることのできない問いに対して、理性は答えを出そうとします。
しかしカントは、このような問いに対して純粋理性を用いると、互いに矛盾する結論に陥る(アンチノミー)ことを示し、最終的に人間の理性には経験の範囲を超えて確実な知識を得る力はないという結論に達しました。
■コペルニクス的転回とは
「主観(=認識する私)と客観(=認識される対象)は、どのようにして一致しうるのか?」という主客一致の問題に対し、カントは従来の発想を根本的に転換しました。
この考え方は天動説から地動説への逆転になぞらえて「コペルニクス的転回」と呼ばれます。
カントは「私たちの認識が対象に従う」のではなく、「対象のほうが私たちの認識の枠組みに従って現れる」と考えました。
そして認識の枠組みとは、まず「空間」と「時間」という感性の形式(直観形式)、そして「因果性」や「実体性」などの悟性のカテゴリー(概念的枠組み)を指します。
私たちはこの枠組みをア・プリオリに備えており、それによって初めて秩序ある経験を持つことができる。したがって私たちの認識構造のもとでは、経験世界において主観と客観の対応(=客観的な知識)は可能になると考えました。
ただしこれは“現象”の世界においてであり、「物自体」については依然として認識不可能であるという点を、カントは明確にしています。
■ア・プリオリ, ア・ポステリオリの違い
経験に先立つ認識、つまりその真理性が経験に左右されない認識をア・プリオリと呼び、感覚経験に基づく認識をア・ポステリオリと呼びます。
例えば、数学的真理はア・プリオリで、天気が晴れているという事実はア・ポステリオリです。
■二律背反(アンチノミー)とは
二律背反(アンチノミー)とは、正命題(テーゼ)、反命題(アンチテーゼ)のどちらにも証明できる矛盾・パラドックスのことで、
理性が経験を超えた問題について考えると、互いに正しそうに見える正反対の命題に陥ってしまいます。
カントは主に以下のアンチノミーの事象について取り扱い、それぞれが二律背反であることを示し、いくら考えては答えはでないと結論付けました。
①魂は不滅であるか
②宇宙の始まりはあるか
③物質は最小単位に分割できるか
④自由は存在するか
⑤神は存在するか
例えば②について、宇宙の始まりが有ると仮定した場合、その始まり以前はどうなっていたのか。何もない所から何かが生じるのはおかしいので、宇宙の始まりがあると考えるのはおかしい。
一方で、宇宙の始まりが無いと仮定した場合、現在までに無限の時間が過ぎ去ったことになるが、無限の上に「現在」という有限の時間が存在するのはおかしいので、宇宙の始まりが無いと考えるのはおかしい。
従ってどちらも矛盾が生じてしまうので、二律背反となってしまいます。
■それでも人間に自由はある
カントは、人間に本当に自由があるかどうかを理論的に証明することはできないと考えました。
しかし同時に、人間が道徳的な法則に従って自ら選択し行動するとき、つまり「義務」に従うときにこそ、人間は自由であると見なすべきであるとも述べています。
このように、自由は経験から証明されるものではなく、道徳法則の前提として「そうでなければならないもの(実践理性の要請)」として受け入れられるのです。
同様に、神や魂の存在も、理論理性(純粋理性)では証明も否定もできません。
しかし、道徳的世界観を成立させるため、すなわち、善行が最終的に報われるという正義の体系を前提とするならば、神の存在も魂の不滅も「必要とされる理念」として実践理性はこれを要請するのです。
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