関ヶ原の戦い



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公開日:2026/5/5    

■関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いは、1600年10月21日に美濃国関ヶ原(現在の岐阜県)で起きた日本史上最大級の合戦です。 豊臣秀吉の死後、政権の主導権を巡り、徳川家康率いる東軍と石田三成らの西軍が対立しました。 戦いはわずか1日で決着し、小早川秀秋の裏切りなどにより東軍が勝利。この結果、家康は実権を握り、後に江戸幕府を開いて約260年続く江戸時代の基盤を築きました。



■関ヶ原の戦い以降の処遇

<東軍>
・徳川家康
征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた。諸大名を再編し、外様・譜代の区別を設けて支配体制を確立。 敵対した西軍大名の領地を没収・減封し、味方には加増を行った。晩年は駿府に退き大御所として実権を保持し、幕藩体制の基盤を整えた。

・池田輝政
大幅な加増を受けて播磨姫路52万石の大名となった。 西国支配の要として重用され、姫路城を大改修して近世城郭として完成させた。 徳川家の娘を正室に迎えるなど将軍家と強く結びつき、外様大名ながら有力譜代に準じる存在として遇された。

・福島正則
安芸・備後49万石へ加増され広島城主となった。 しかし武断的な統治や城修理の無断実施が問題視され1619年に改易され信濃川中島へ配流となった。 豊臣恩顧の大名でありながら、最終的には徳川政権下で地位を失った。

・井伊直正
近江佐和山18万石に加増された。しかし合戦で受けた鉄砲傷がもとで体調を崩し1602年に死去。 以後は嫡男が家督を継ぎ井伊家は彦根藩主として徳川政権下で譜代大名の中核を担い続けた。

・黒田長政
豊前から筑前52万石へ大幅に加増され福岡藩主となる。徳川政権下では外様ながら有力大名として遇され、九州統治の要を担った。 父黒田如水とともに徳川家との関係を強め、家は以後も大藩として存続した。

・細川忠興
豊前小倉から肥後熊本54万石へ加増された。有力外様大名として九州支配の一翼を担い、徳川政権下で重用された。 晩年は家督を子の細川忠利に譲り、自らは隠居して文化・茶の湯にも深く関わった。

・山内一豊
遠江掛川から土佐24万石へ加増された。 以後は土佐藩主として入国し浦戸から高知へ城下町を整備して藩政の基盤を築いた。 徳川政権下では外様大名ながらも信任を受け、家は幕末まで存続した。

<西軍>
・石田三成
西軍の中心人物。敗走後、滋賀県長浜市付近の「大蛇(おとち)の岩窟」に潜伏していたが捕らえられ、1600年に京都六条河原で処刑された。所領は没収され家は断絶。

・安国寺恵瓊
毛利氏の外交僧でもあった恵瓊は、毛利輝元を総大将として擁立するなど中心的役割を果たしたが敗北。 戦後に捕らえられ、1600年に石田三成や小西行長とともに京都六条河原で処刑された。 所領は没収され毛利家内での影響力も完全に失われた。

・小西行長
敗走後、伊吹山中で捕らえられ、1600年に京都六条河原で処刑された。 キリシタンであったため改宗を拒み、自刃せず処刑されたと伝えられる。所領は没収され家は断絶した。

・宇喜多秀家
敗走後、島津家に身をひそめるも幕府に身柄を引き渡される。死罪は免れたものの八丈島へ流罪となった。 以後は赦免されることなく長く島で幽閉生活を送り、その地で生涯を終えた。所領は没収され宇喜多家は大名としては断絶した。

・大谷吉継
病を押して出陣し石田三成らを支えたが敗北。戦闘中に自害したとされる。遺体は敵に見つからないよう密かに処理されたとも伝えられる。 戦後、所領は没収され大谷家は断絶した。

・小早川秀秋
当初西軍側に属していたが、戦場で東軍へ寝返り勝敗を決定づけた。戦後、その功により備前岡山約55万石を与えられ大名として存続、宇喜多秀家に代わり岡山城に入城した。 しかし裏切り行為への評価や精神的不安定さも伝えられ、1602年に若くして死去し、後継者がなく小早川家は改易となった。

・吉川広家
西軍に属しつつも徳川家康と内通して本戦への積極参戦を避け、毛利本軍の行動を抑制した。 その結果、戦後に毛利家は改易を免れ、周防・長門に減封されて存続した。 広家自身は戦後に徳川方から一定の評価を受け、岩国の地を安堵されて子孫も存続したが、毛利宗家からは一時的に批判を受ける立場となった。

・毛利秀元
西軍に属し、毛利軍の実質的な指揮を担う立場にあったが、吉川広家の抑制もあり本戦では積極的に動けず敗北した。 戦後、毛利宗家は大幅減封されたが改易は免れ、秀元は周防・長門の一部を与えられて長府藩の基盤を築いた。 以後は毛利家の分家として存続し江戸期大名として家を維持した。

・長宗我部盛親
本戦では目立った戦果を挙げられず敗北。戦後、所領を没収され改易となり浪人となる。 その後、大坂の陣では豊臣方に加わり再起を図るも敗れ、1615年に捕縛されて処刑された。 これにより長宗我部氏の大名としての系統は断絶した。

・毛利輝元
西軍の総大将とされたが、実際には本戦には出陣せず大坂城に留まり、戦局を主導できなかった。 敗北後、徳川家康から本領安堵は受けたものの、大幅に減封されて安芸・周防・長門の約120万石から30万石程度へ削減された。 以後は隠居し、家督を子の秀就に譲って毛利家の存続を図った。




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