山本七平著 『「空気」の研究』の感想



読んだ本のこと

情報科学:00

ジャーナリズム:00

哲学:10

歴史:20

社会科学:30

自然科学:40

技術,工学:50

産業:60

文学:90

公開日:2020/11/28    

■本の情報 
<作者> 山本七平
<発行日> 1983年10月 (文藝春秋)

■感想 ネタバレを含みます。緑文字が私のコメント、感想です。
<内容は難しい>
本書が書かれた時代背景や歴史上の事柄に対する補足説明がなく、当然周知されているという前提で書かれているため、理解に非常に苦労した。 著者はかなり博識な方であるという事が文章からにじみ出てはいるが、読者を選ぶ本である。下から目線で言えば「もう少し解りやすく説明して欲しい」というのが感想です。

<空気とは>
「場の空気に従ってそうせざるを得なかった」という事は、確かに多くの日本人が体験したことのある感覚であると思う。本書ではその事例として、理屈上では勝てる見込みのない太平洋戦争を推し進めてしまった事例、 イタイイタイ病の原因が科学的根拠のないカドミウムであると決めつけ、カドミウムに対する異様な恐れを抱いてしまった事例を挙げている。

空気が発生する基本は臨在感的把握にあるという。臨在的把握とは、場を支配する見えない何かがその場にある様に感じる事です。 もともと臨在という言葉はキリスト教の用語で、見えない神が常にそこに存在しているという意味です。キリスト教においては臨在とは神の存在しか認められていませんが、 様々な物質に神が宿るというアニミズムの考えを持つ日本人にそれを当てはめると、臨在感的という表現になるという訳です。 (なお著者はクリスチャンだっためそのような表現を思いついたのだと、思いました)

臨在感的把握は、物質に対する感情移入の絶対化によって発生するという。カドミウムの事例においては、イタイイタイ病の悲惨な状態を臨在感的にとらえ、その悲惨さをカドミウム棒に感情移入したことによってカドミウムが絶対化されたため、 技術者がカドミウム棒を舐めって安全性を証明しようとした時に、記者が思わずのけぞってしまったのだという。しかし、人体にどんな影響を及ぼすかわからない物質を舐めて僅かにでもその成分が入ったらと思ったら、 大丈夫だとは思っていても舐めたくはないという気持ちは、たとえ悲惨的な状態を臨在感的に捉えていなくても発生しうると思いました。またカドミウム棒を舐めるのとよく似た事例に、病原性大腸菌O157による風評被害を打ち消すためにカイワレ大根を政治家が食べて見せるという事がありました。 日本人にとっては、この様に当事者が率先してやって見せる事が効果的なのだと思いました。

<言必信行必果 硜硜然小人哉>
これは論語の言葉で、意味は「必ず言葉を守り、必ず結果を出す。しかしその様な人は器として小さい」です。周恩来が田中角栄に「言必信行必果」の部分だけ贈り、それを受けて(後ろに続く言葉をおそらく知らず)喜ぶ角栄氏の姿がありました。 小人をおっちょこちょいと読めば、なんと鋭く日本人なるものを見抜いたと、著者は驚嘆する。

<空気の支配から解放されるには>
物事に対する絶対視が空気に支配される原因となるので、空気の支配から開放されるためには物事を対立概念で把握し相対化する事が必要である。例えば、「正直者がバカを見ない世界になってほしい」⇒「そんな世界が来たらバカを見たものは全員不正直になってしまう」、 あるいは「社会主義とは能力に応じて働き報酬が支払われる社会です」⇒「報酬の少ない者は、報酬が少ないという苦痛の他に無能という烙印を押されることになる」ととらえる事である。

空気の支配から解放するもう一つの方法に「水を差す」方法がある。水を差すとは通常性に戻すことである。そして戦後の一時期盛んに口にした自由とは「水を差す自由」であり、この自由を確保しておかないと大変なことになる。 また空気に支配されていたら、いくら言葉を投げかけても全く動じることは無いが、身をもって体感したら瞬間的に状況に対応する事ができる。という特性を日本人は持っている点を認識することも重要である。




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