古代日本のことが書かれた書物、遺跡



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公開日:2021/7/1    

古代日本のことが分かる最も古い日本の書物は古事記、日本書紀ですが、それ以外には史跡や中国の書物等がありますので、まとめました。

<『漢書』地理志>
後漢の時代に書かれた書物で、日本に関する最も古い時代の記述があります。これによると日本は100以上の小国があり、中国王朝に定期的に朝貢しておりました。

楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国と成し、歳時を以て来たりて献見すと云う。

<『後漢書』東夷伝>
後漢書が作られたのは西暦430年頃の南北朝時代で、後漢の時代のことが書かれています。後漢書より先に魏志がありますが、作られた年代は魏志の方が、古いが書いてある内容は後漢書の方が古いという状態になっております。

後漢書に書かれている内容は次のとおり。西暦57年に倭の奴国の王に光武帝が金印を授けたと書かれています。これは福岡県の志賀島で発見された金印がまさにそれにあたると考えられています。 また、東夷伝には二世紀後半に倭国大乱があったとされています。ちょうどこの時期に日本では高地性集落が作られるようになり、吉野ケ里遺跡などの様に他からの攻撃を想定した集落などもあることから、 東夷伝の記述と一致します。

建武中元二年、倭奴国、貢物を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南海なり。光武賜ふに印綬を以てす。桓霊の間、倭国大いに乱れ、更相攻伐し暦年主なし。

<『魏志』倭人伝>
邪馬台国のことが書かれています。倭国大乱の後、卑弥呼を女王にすることで国々が統合する方向に向かいました。魏の皇帝は卑弥呼に金印紫綬を授けました。

<七支刀銘文>
369年に百済の王子が神功皇后に送ったとされる刀です。四世紀の日本の様子が分かる史料はこの七支刀と次の好太王碑文しかない為、この時代を「謎の四世紀」といわれております。

<好太王碑文>
中国東北部にある高句麗の好太王の業績をたたえた石碑。日本が朝鮮に出兵して高句麗と戦ったことが分かります。 この碑文の解釈をめぐる論争があります。

<ワカタケル大王の鉄剣>
埼玉県の稲荷山古墳と、熊本県の江田船山古墳にワカタケル大王の名前が刻まれた県が出土しました。大和政権が少なくても埼玉県から熊本県あたりまでの広い範囲に及んでいたことが分かります。この剣は日本で文字が記録された最古の史料です。

<『宋書』倭国伝>
讃、珍、済、興、武の5人の倭国の王が朝貢したことが記載されています。これは、履中天皇、反正天皇、允恭天皇、安康天皇、雄略天皇にあたるとされています。 なぜ天皇の名前と全く異なる名前が当てられているかというと、中国は冊封体制の中で朝貢してきた人物に対して中国側から名前を当てるという風潮があったためと考えらえています。

なお日本側の史料に全くこの名前が出てこないこと等から、この5人の王は九州の小国の王ではないかという説もあります。

また倭王武が宋の皇帝送った手紙の内容が記されており、そこには、東は毛人の国(東日本)55か国を征し、西は衆夷の国(西日本)66か国を服従させ、北は海を渡って(朝鮮半島)95か国を平らげたとあります。 ここから、大和政権の影響範囲は広く、朝鮮半島まで及んでいたということが分かります。

<『隋書』倭国伝>
隋書には邪馬台国(邪靡堆)のことが触れられており、邪靡堆は「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」とあります。 隋の時代の日本の中心は畿内地方でしたから、邪靡堆=大和政権=邪馬台国と考えるのが自然だと私は思います。

また「日出づる処の天使が、日没する処の天子に送ります」日本が隋へあてた手紙を送ったことで、隋の皇帝の煬帝を怒らせたことが記されています。

 






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