劇場版 機動戦士Zガンダムのラストシーンでのファのセリフについて、どうもしっくりこないので、その理由について述べます。
■ 劇場版 機動戦士Zガンダムの解説
アニメ版として放映開始された1985年から20年たち、リメイクされ劇場版として上映されました。完全リメイクではなく、当時の映像とリメイクされた映像が混在した形だったので、違和感を持ったという人も多くいました。
特にエンディングが、以下2つの理由で大きな批判を招きました。
<批判① カミーユが精神崩壊しなくなった>
アニメ版では最後にカミーユは、シロッコの影響で精神崩壊をおこしてしまいます。しかし劇場版ではカミーユの代わりにサエグサが精神崩壊し、
カミーユの精神は正常のままファと抱き合いエンディングを迎えます。
アニメ版のバッドエンドの結末がZガンダムらしさを際立たせていた筈が、それを変えたことで凡庸な物語に成り下がってしまったという意見が多くありました。
またカミーユが精神崩壊しないことで、続編のガンダムZZでジュードーとの邂逅がなくなってしまうため、その後の全体の話が繋がらなくなるという批判や、
ガンダムZZのエンディングでカミーユとファが楽しそうにして走るシーンもまた意味合いが変わってしまうという意見があります。
<批判② カミーユとファが抱き合うのはF91の二番煎じ>
機動戦士ガンダムF91は1991年に公開された映画ですが、エンディングでシーブックとセシリーが宇宙空間で抱き合うシーンがあり、それの二番煎じ感が拭えないという意見があります。
左が劇場版 機動戦士Zガンダム、右が機動戦士ガンダムF91。ここで流れている曲は、GacktのLove letter(Zガンダム)と、森口博子のEternal wind(F91)。どちらもシーンにマッチした非常に良い曲です。
<上記批判に対する私の意見>
私はむしろ劇場版のハッピーエンドが見れてとても良かったと思いました。しかしアニメ版のエンディングがあったからこそ、劇場版のエンディングが際立ったのであり、
アニメ版のエンディングを知らず劇場版のエンディングを観ていたら、そこまで良いとは思わなかったかもしれません。しかも、アニメ放映終了時点(1986年)で劇場版のエンディングが存在していたとしたら、
今度はF91のエンディングが二番煎じとなったので(F91はあれが完璧だった)、やはりアニメ版の20年後のタイミングで劇場版を観れたのはベストだったと思います。
また細かいところではF91と表現を微妙に変えており、シーブックとセシリーとの親密度と、カミーユとファの親密度の違いが両者の抱き合い方の違いとして現れており、こういう表現もありだと思いました。
(シーブック達は気を使いながら優しく抱きしめる様な大人びた抱き方。カミーユ達は強く抱きしめ、足を相手にからめる様にして少し無邪気さを見せた抱き方)
■ 劇場版 機動戦士Zガンダム ファの最後のセリフ
ここで本題ですが、カミーユとファが以下のような会話を交わします。
カミーユ「ファだけは幻覚でもなければ意識だけの存在でもない。こうやって抱くことができるんだから」
ファ「カミーユだって 私が抱けるから嬉しいのよ」
ファのセリフが何となく違和感を感じないでしょうか。「嬉しい」と感じる主語がファなのか、カミーユなのか一瞬悩んだ人もいるかと思います。
例えば「カミーユだって」という言葉が倒置されており、「私が抱けるからカミーユだって嬉しい(と感じる事ができる)のよ」と解釈もできると思います。
ただ文脈から考えて「カミーユだって(意識だけの存在ではない)。私が抱けるから(私が)嬉しいのよ」という意味だと私は解釈しました。
「私だって カミーユを抱けるから嬉しいのよ」というと、誤解がなく嬉しいのはファであることが伝わると思いましたが、
冨野さんの独特の言い回しの一つなのでこれはこれで良いのだと思いました。
|