イマヌエル・カントの哲学



政治思想, 哲学

公開日:2021/6/26    

■イマヌエル・カントとは
イマヌエル・カント(1724~1804)はプロイセン王国(現ドイツ)の哲学者。自身の哲学を「コペルニクス的転回」と呼ぶ(天動説から地動説にパラダイムシフトしたかのような、ものの例え)。 1781年に「純粋理性批判」を出版、その4年後に「道徳形而上学原論」を出版。ジェレミー・ベンサムが主張した功利主義を批判した。

<功利主義に対する批判点>
その時の利害や欲望、選好といった経験的理由から道徳原理を導き出そうとする功利主義は、道徳の考えとして間違っており、たとえ過半数以上の賛同を得ようと、正しいとは限らないという。 また、ある人間を幸せにすることと、善い人間にすることは全く別の話だし、抜け目のない人間であるのと徳のある人間であるのも全く別の話であるという。 更に、全体の福祉の為に個人を利用するのは誤っており、人間の尊厳を尊重するのは人格そのものを究極目的として扱うことだとしている。

<カントの考える自由とは>
人間は「理性的」な生き物であると同時に「感性的」な生き物であるが、理性的な部分が人間を人間たらしめており、理性的に行動している時が真の自由であるという。

例えば、のどが渇いて飲み物を欲したとする。この時、水を飲むかお茶を飲むかコーラを飲むか、自分の意思で自由に飲み物を選択したとしても、それは真の自由ではなく、自分の好みに合ったものを選んでいるだけで、好みはそもそも自分が選んだものではない。

カントの考える自由(自律的な行動)とは、自然の命令や社会的な習慣ではなく、自分が定めた法則に従って行動することである。 例えば、夜遅くまで勉強しているのは何のためかと深堀りしていき、いい大学に入学したいから⇒いい会社に就職したいから⇒たくさんお金をもらいたいから⇒美味しいものをたくさん食べたいから、と行き着く場合、 それはやはり欲望に従った行動になる。

<道徳的な行動か否かは動機をみる>
その行動が道徳的か否かは、行動がもたらす結果ではなく、行動を起こす動機で決まるという。例えば、人助けをしたとしてもその動機が「他人からいい人に見られたいから」というのであれば、道徳的な価値はない。称賛に価するかもしれないが、尊敬には値しない。 あるいはテストでいい点数を取ったらお小遣いをもらえるとして、そのために勉強することは道徳的価値はない。

なお、人としての義務だと考え人助けして、結果的に喜びを得られた場合(義務を達成できたことによる喜びなど)、これは道徳的価値を損なうものではないと考える。

※ 2016年 リオデジャネイロ オリンピックのトライアスロンにおいて、TOPを走る弟のジョナサンがゴール直前で倒れそうになった時、2位/3位争いをしていた兄アリステアが、自分の順位を捨ててまでジョナサンを助けたという場面がありました。 その後のインタビューでアリステアは「人として正しいことをしただけだ」とコメントしました。アリステアは人助けによって人から称賛されたかった訳ではなく、純粋にそれが正しいからという考えを持っていました。これは正にカントの考える道徳的な行動である事例だと思います。

また小林よしのり氏は自身の著書「ゴーマニズム宣言」の中で、重要なのは動機よりも結果だと述べている。人助けの例をとると、助けてもらう側の人にとっては、相手の動機が不純だからといってその人の助けを拒んだりするだろうか?否、しない。と述べている。 カントに言わせるとまさに、称賛には値するかもしれないが尊敬には値しない、ということなのだろう。これは「やらない善よりやる偽善」は正しいか?の議論に発展する問題であると私は思いました。


<実践すべき行動規範:定言命法>
定言命法とは、絶対的に適用される実践的な法則のことである。これに従い行動すべきであるとカントは考える。定言命法の内容は、人格を究極目的として扱うこと、行動の基準としようとしていることが誰にも当てはまる普遍的法則となるかで考える。

<嘘には厳しい>
罪のない嘘だとしてもカントはこれを否定する。例えば、友人を自宅にかくまっており、殺人者が友人を殺すため友人が自分の家にいるか尋ねたとする。自分は友人を助けるために、「私の家にはいません」と答える。 カントにとってはそれが嘘であるという理由のみで、許されないとする。真実を語ることは、いかなる都合も認めず、例外なく適用される神聖な理性の法則であるという。ではこの場合どうすればよいのか、例えば「さっき近くのスーパーで見かけました」ということはそれが真実ならば許される。




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