「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」



自分の思うこと

初回更新日:2020/7/10    

「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」 この言葉に違和感を持つ人は多いと思う。内容の意味は、発言した人によって変わるものではないし、変えられるべきではない。 色眼鏡をとおして見るから、受け止め方が変わってしまうのだ。誰が言ったかではなく何を言ったか、その内容のみを素直に受け止めて判断すべきだと。

これは時と場合によって正しいが、そうではない場合も多い。何故なら、その時の一発言だけではその発言に至る根拠を細かく説明しつくされる訳ではなく(逆に説明しつくされた状況というのは稀)、 その見えない部分を集約した結果の発言なのだから、その発言から意図を解釈するには、ある程度その人のバックグラウンドを考慮する必要がある。

わかりやすい例えは、医者に「風邪ですね」と言われる場合と、一般人に「風邪ですね」と言われた場合、全く同じ発言なのに信じるのは医者の方であろう。 それは何故か。それは一般の人より医者の方が風邪と判断できる知識が備わっているという事が解るのは、医者という肩書きをあてにしているからだ。

発言が真か偽かで容易に判断できるようなケースは、バックグラウンドに関わりなくその人の発言を評価できるのだが、 立場が変わればどっちの答えも正しいようなケースというのは往々にしてあるので、その時はその人のバックグラウンドを十分気にする必要がある。

例えば学術的な論文は、正しいことを書いていてほぼ無条件に信じてもよいと思うかもしれないが、その人の導きたい結論ありきで、 都合の良いデータばかりを引っ張ってくる場合もあるので、どんな立場の人が書いた論文か注意が必要である。 「卵の食べ過ぎは健康に良くない」と「卵はいくら食べても健康に悪影響を与えない」という結論は、主張する人の立場の違いによって どうとでも結論付けられる。例えば卵業者から支援を受けている人が導き出す結論はどちらになるか、想像がつくであろう。

従って、「何を言ったか」で判断するには、何故その考えに至ったのか等、納得いくまでとことん情報を引き出す必要があり、 十分吟味した結果、言っている内容が正しいとそこで初めて判断できるようになる。しかし、先述したとおりそこまでの情報を得て判断できるケースは稀である。 何を言ったかで本当に判断できるかどうかを確かめるためには、判断できる位の情報量が備わってるかどうかを客観的に眺めてみるのが良い。

■結論
本当の理想は「何を言ったか」で判断できる事で、それを常に目指す必要があるが、実情「何を言ったか」で判断できるほどの情報が十分揃っているケースはほとんどない。 従ってその言葉の背景を補うために、「誰が言ったか」というのは重要な情報(要素)となっており、判断根拠の一つとする必要がある。 「何を言ったか」だけで判断できるケースは少ないという実情を理解せずに、「何を言ったか」で判断しろというのは宜しくない。




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