鎌倉時代から室町時代までの流れ



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公開日:2021/1/4 , 最終更新日:2022/6/22      

鎌倉幕府が成立してから、室町幕府に移り変わるまでの時代の流れを説明します。

■鎌倉時代の流れ

以前は1192年が鎌倉幕府の成立年と言われていましたが、現在は、壇ノ浦で平家を滅ぼし源頼朝に守護地頭を設置する権限を朝廷より与えられた1185年が、鎌倉幕府が成立した年とされています。

源氏は清和天皇の血筋を受けていたため、源氏の政治は許されてきました。しかし源氏から北条氏に代わったのを機に、朝廷は北条氏から政治の主体を取り戻すため、 1221年に後鳥羽上皇(1180-1239)によって第2代執権 北条義時を討つ様に全国の武士に命令を出しましたが、幕府側は北条政子の演説により幕府の結束を固め朝廷側に勝利しました。結果、後鳥羽上皇は隠岐に流されました(承久の変※後述)。

1331年に後醍醐天皇(1288-1339)が討幕を試み、2度の失敗を経た後、隠岐から脱出して、楠木正成、足利尊氏、新田義貞らの活躍により鎌倉幕府を討つことに成功しました(1333年、この時第16代執権 北条守時)。 楠木正成は朝廷をお守りした人物として英雄視されており、皇居にも楠木正成の銅像が建てられております。

1334年からは天皇自ら政治を行う建武の新政となりますが、恩賞が不十分だったことを不服とし、武家政治の再興を目指す足利尊氏の離反が起こりました。朝廷側は一度は尊氏を九州に追いやりましたが、尊氏は光厳上皇の院宣を携えて兵を集め、再度京都に向かいます。 1336年に湊川の戦で新田義貞と楠木正成を破り、京都を制圧しました。後醍醐天皇は三種の神器をもって吉野に逃れ(南朝)、尊氏は京都で新たに天皇を擁立(北朝)することにより、建武の新政はわずか2年で終わり、南北朝時代を迎えます。


<鎌倉幕府滅亡の原因は何か>

鎌倉幕府が滅亡した直接の原因は、第14第執権 北条高時の悪政だと思われます(民を顧みず贅沢を極めていた)。 一方で、1274年と1281年の蒙古襲来で戦った武士に対して報酬を与えることができず不満が高まったことが、鎌倉幕府滅亡の遠因になっていると言われています。 ただし蒙古襲来から滅亡まで約半世紀もたっており、それを本当に原因と考えて良いか解らないとも言われています (蒙古襲来から半世紀有れば、やりようはいくらでもあった)。

<後鳥羽上皇と後醍醐天皇に関する有名な5chコピペ>

これを知ったら後鳥羽上皇と後醍醐天皇について覚えやすくなると思います。本当にこの様なDQNがいたかどうかは定かではありませんが、DQNの知性を問われる行動の割にやたら日本史に詳しいというそのGAPの面白さと、この文章を考えた人のセンスが高く評価されています。

178 女性音楽教諭(大阪府) 2007/05/26(土) 22:54:20 ID:epWRnYVI0
こういうDQNは停めても無駄なんだよな
俺も遊泳禁止の場所で遊んでるDQNに向かって
危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!って注意したら
DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の変〜」
とか言って聞き入れなかったわ
死んで当然だと思った。

193 女性音楽教諭(大阪府) 2007/05/26(土) 23:05:47 ID:epWRnYVI0
>>188
いや、マジで。

俺「ふざけるな!マジで帰って来れなくなるぞ!!」
つったら、
DQN「は?後醍醐さん普通に帰ってるしww」
DQN女「パねえ、パねえ建武の新政マジパねえww」
とか言うから、
勝手にしろ!!って呆れて帰ってきた・・・。

左が後鳥羽上皇、右が後醍醐天皇の肖像画になります。(wikimedia commonsより)


<承久の変と、承久の乱の違い>

現代の学校の教科書では「承久の乱」と記載されており、「承久の変」と記載することは許されておりません(テストで承久の変と書くとバッテンになる可能性がある)。 戦前までは承久の変で、戦後から承久の乱に改められましたが、これは戦後の教育思想(道義的人物としての天皇を表さない)によってもたらされた改変と考えられます。

そもそも乱と変の違いは、乱は政権や国家に対するクーデターを意味しています。今回の事例において、本来国家の権威である天皇が、国家に対するクーデターを起こすという表現は適切ではないと考えられます。 変は、反乱ではないが本来起きてはならない様な事件を意味しますので、今回の事例では変が適切であると個人的に思います (様々な解釈があります)。

なお、上記5chコピペでは初めは変が使われていたと認識しております、その後転載を重ね、乱の記載も使われる様になりました。

■室町時代の流れ

いつからを室町時代とするかは、1333年の鎌倉幕府が倒れた時から、1336年の南北朝が建てられた時から、1338年の足利尊氏が征夷大将軍に任命された時からと、意見が分かれるところですが、ここでは1336年としております。

南北朝時代は約60年間続き、第3代将軍 足利義満の力で1392年に合一されました。その間どちらを正統な朝廷とするかですが、合一する際に和平のための譲歩として、北朝側の義満が南朝を正統な朝廷とすることを認めたことから、南朝が正統な朝廷となります。

南北朝が合一された後は北朝側が天皇となり、現在の天皇も北朝側の系譜ですが、もともと北朝も南朝も後嵯峨天皇の子孫にあたるので、今の天皇が正統ではないという事ではありません。

1467年に応仁の乱がおこり戦国時代になりますが、室町時代は戦国時代になっても暫く続きます。以降の説明はこちらを参照。



<足利尊氏の評価>
足利尊氏は鎌倉幕府に対する謀反、後醍醐天皇に対する謀反を起こしたり、北畠親房が書いた「神皇正統記」や、江戸時代の徳川光圀が書いた「大日本史」の影響などで裏切り者のイメージが強くなっていましたが、 現在ではその評価も見直される動きもあります。尊氏の否定は、現在の系譜である北朝の否定にも繋がりかねないという見方もできますので。

<北条早雲と鎌倉幕府の北条氏の関係>
戦国時代に関東地方を治めていた北条氏は、鎌倉幕府の北条氏とは関係が有りません。もともと北条早雲は北条の姓を名乗っておらず、息子の氏綱が北条という姓を名乗ったために、後に早雲も北条早雲といわれるようになりました。




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