景行天皇, 倭建命 (古事記)



古事記

公開日:2025/2/20     

関連知識
 ・登場人物, 神の系図
 ・前の話:崇神天皇, 垂仁天皇
 ・次の話:成務天皇, 仲哀天皇


■景行天皇

景行天皇は纏向の日代宮で天下を治めました。天皇は美濃の国造の祖先の大根王(おおねのみこ)の娘の兄比売(えひめ)、弟比売(おとひめ)の二人の乙女が、その顔立ちが美しいと聞いたので、召そうと思い、大碓命(おおうすのみこと)を派遣しました。 しかし大碓命は天皇のために召し上げず、自分で二人の娘と結婚し、その上で別の女性を偽って天皇のお求めの乙女であると名乗らせて天皇に差し出しました。天皇はそれが別の娘であると知りましたが、大碓命への恨みを抑えて、その女とも結婚せずに悩みました。

天皇は小碓命(おうすのみこと)に「どうしてお前の兄の大碓命は朝夕の食事に出てこないのか。ねぎ(丁寧に)教え諭してやりなさい」と言いました。しかし五日たっても大碓は食事に出てこないため、天皇はその理由を小碓命に尋ねると、小碓命は「もう"ねぎ"ました」と言いました。 天皇は更に「どのように"ねぎ"諭したのか」と尋ねると、「明け方に兄が厠に入った時に、捕まえて手足をもぎ(ねぎ)取り、ムシロにくるんで投げ捨てました」と小碓は答えました。

■倭建命の熊襲建, 出雲建征伐

<熊襲建征伐>
この事があって、天皇は小碓命の性格の荒々しいことを恐れ、西の方に熊襲建という無礼な奴が二人いるのでそのやつらを殺せと、小碓命を遣わせました。この時小碓命はまだ少年で髪を額で結っていました。 そこで叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)の衣装を頂戴し、剣を懐に入れていきました。やがて熊襲建の所に着いたところ、新しい家ができた事による祝いをちょうど行っていたので、小碓命は女装して忍び込みました。 すると熊襲建の二人はその乙女を一目で可愛いと思い、自分たちの間に座らせて、宴に興じました。そして宴もたけなわの時に、小碓命は懐から剣を取り出し兄の衣の襟をつかみ胸を突き刺しました。 弟はそれを見ると恐れて逃げ出しましたが、小碓命は階下まで追いかけ、剣を尻から刺し通しました。その時、熊襲建は「あなたは一体どなたですか」と尋ね、小碓命は身分を明かしたところ、 熊襲建は「西の方面では私二人のほかに強い人は居ませんが、大和国に私達より強い男がいらっしゃったとは。そこでお名前を献上したく、今から"倭建御子"と名付けましょう」と言いました。 そう言い終わったところで小碓命はとどめを刺し、その時から倭建命と名乗るようになりました。

<出雲建征伐>
上京の途中、倭建命は出雲国に入り、そこの出雲建を殺そうと思い、到着するとすぐ出雲建と交友関係を結びました。そして密かに偽刀をつくりそれを自身の太刀として身に付け、出雲建と一緒に川で水浴びをしました。 そして倭建命は先に川から上がり「太刀を交換しよう」と言って出雲建の刀を身に付け、後から出雲建は偽刀を身に付けました。すると倭建命は挑発して「さあ太刀合わせをしよう」と言い、 しかし出雲建は偽刀なのでそれを抜くことができず、倭建命は本物の刀を抜いて出雲建を殺しました。そして都に戻って天皇に報告いたしました。



■倭建命の東方征伐

それから天皇は倭建命に、東方の十二か国のあれて従わない神を従わせ平定せよと言って、柊のきで作った長矛を天子の使者の印として授けました。倭建命は伊勢の天照大御神の宮にお参りをし、神宮の斎王である倭比売命に対して倭建命は 「西の荒々しい人どもを討伐してからどれほどの時も置かずに、今度は東方の十二か国の荒々しい人どもを平定に遣わせになる。この事から考えても、天皇は私に死ねと思っているのです」と言いました。 そして思いわずらい泣きながら退出する際に、倭比売命は草薙の剣を授け、袋を授けて「もし危急のことがあったならばこの袋を開けなさいと言いました」

その後、倭建命は尾張国に至り、美夜受比売(みやずひめ)の家に泊まりました。美夜受比売と結婚しようと思いましたが、都に戻る時に結婚しようと思い、約束をした後に東国に行き悉く平定していきました。 相模国に行ったときには、国造が野の中の沼に凶暴な神がいると偽って、倭建命にその野に入らせた時に火を放ちました。そこで倭建命は倭比売命から貰った袋の中を見ると、火打ち石があったので、 まず草薙の剣で草を刈り、その火打ち石で向かい火を着けて迫りくる火を退けて、野の中から脱出して、国造らを切り殺し、火を着けました。それでそこを今でも焼津といいます。

そこから更に東に進み、走水の海を渡る時に、そこの神が波を荒立てるので船を進めることができませんでした。すると倭建命の后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が、畳を波の上に敷いてその上に降り立ったところ、波は収まり船は進むことができるようになりました。 それから七日経って、后の櫛が海辺に流れ着いたのでその櫛を取り上げ、御陵を作り収めました。

<東方からの帰還>
さらに東へと行き、蝦夷どもを手懐けたので都に帰ることにしました。その途中の足柄山の坂本で食事している時に、坂の神が白い鹿に姿を変えて現れました。そこで食べ残しの蒜を投げると鹿の目に命中し、殺してしまいました。 それからその坂の頂に立ち、三度ため息をついて「我が妻よ」と言いました。それからその地域を阿豆麻(あずま)と呼びます。

そして尾張国の約束していた美夜受比売のところに戻ってきました。美夜受比売がご馳走を差し上げている時に、倭建命は美夜受比売の着物の裾についている月経の血を見て、「本当はあなたを抱きたいと思うけれど、羽織の裾に月がでているとは」という歌を歌いました。 そこで美夜受比売は、「長い間あなたを待っていたので、待ちきれずに私の羽織の裾に月が出てしまった」という歌を返しました。 こうしたことがあって二人は結婚して、倭建命は身に付けていた草薙の剣を置いて、伊吹山の神を殺しに行きました。

<伊吹山での痛手>
そして倭建命は「この山の神は素手でもすぐに殺してくれよう」といって山を登り、その途中で大きな白い猪に出会いました。倭建命は「この白い猪は山の神の使いなので、戻る時に殺してやろう」と言って、そのまま山を登っていきました。 しかしこの猪は使いではなく実は山の神そのもので、山の神は大粒の雹を降らし、倭建命は打ちのめされ正気を失いました。倭建命は山を下り、玉倉部の清水にたどり着いて休憩すると正気を戻しました。 そこから出発して都に戻ろうとしますが、体調は回復しないままでした。三重の村に着いた時に、「我が足はまめ、たこ、むくみの三重の曲がり餅のようになってしまった」と言いました。それでその地を三重と呼びます。

<崩御>
そこから更に行き、能煩野(のぼの, 三重県鈴鹿市付近)で、故郷を思った歌をいくつか歌いました。この時に病気が急変し、「乙女の床のかたわらに、我が置き残した太刀、その太刀よ」と歌い、崩御しました。

倭建命の訃報を受けて、大和にいる后と御子たちはみな能煩野に下り、御陵を作り悲しみの声を上げて泣き、歌を歌いました。そのとき、倭建命の霊魂が白い千鳥となり天に昇っていくのが見え、后と御子たちは竹の刈り株に足が切り裂かれても、その痛みを忘れて声を上げて泣きながら追いました。 その時に歌った歌は今でも天皇の大葬の義に使われています。それから千鳥は河内国の志紀に行きました。そこでその地に白鳥の御陵を作りました。




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