崇神天皇, 垂仁天皇 (古事記)



古事記

公開日:2025/2/20     

関連知識
 ・登場人物, 神の系図
 ・前の話:神武天皇の東征
 ・次の話:景行天皇, 倭建命


■崇神天皇

崇神天皇の時に疫病が盛んになり国民が絶えてしまいそうになりました。そこで天皇は心配になり神託を得るために床で休みになった時に、 大物主神が夢に現れて「この疫病は私が引き起こしたものです。なので意富多々泥古(おおたたねこ)によって私を祭るならば祟りは消えるでしょう」といいました。 そこで使者を四方に分けて出してたところ、河内国で意富多々泥古を見つけることができました。天皇はその人に「お前は誰の子か」と聞いたところ、その人は「私は大物主大神が活玉依毗命(いくたまよりびめ)と結婚して産んだ子の子孫の意富多々泥古です」と答えました。 天皇はとても喜び、意富多々泥古を神主として御諸山に大三輪大神である大物主神を祭りました。 そして伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)に命じて、祭るべき天の神、地の神の社を定めた。宇陀の墨坂神には赤色の盾と矛を供え、大坂神には黒色の盾と矛を供え、その他にも様々な神を祭り供え物を献上したところ、疫病が止み国家は平安になりました。

<三輪山伝説>
この意富多々泥古が神の子孫であると知った理由は次のようなことによります。活玉依毗命は容姿が美しかった。ある時、美しい容貌と整った身なりの男が夜中に忽然とやってきて、活玉依毗命とその男は互いにいつくしみ合い、 共寝して一緒の時を過ごす間に、乙女は妊娠しました。両親は娘の妊娠を不思議に思い、娘に問いただして「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか」と言うと、娘は答えて「立派な若い男で、名前も知りません。毎夕やってきて一緒に過ごすうちにおのずと妊娠しました」と言いました。 そこで娘の両親はその男が誰かを知りたいと思い、娘に「赤土を寝床の前に散らし、糸巻に紡いだ麻糸を針穴に通し、男の着物の裾に刺せ」と言いました。 娘は言うとおりにして、朝になってみると麻糸は外に出ていっており、残った麻糸は糸巻に三巻だけでした(そのためこの地を三輪という)。 そしてこの糸に従って後をつけていくと、三輪山の神社の中で止まっていたので、娘の腹の中の子はこの社の大物主の子と分かったという訳です。

<建波邇安王の謀反>
崇神天皇は大毗古命(おおびこのみこと)を越の道に、その子の建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)を東方十二道に、日子坐王(ひこいますのみこ)を丹波国に派遣し平定させました。 大毗古命が越国に行っている時に、腰に裳を着けた少女が歌を歌っていました。この歌を聞いた大毗古命は不思議に思い、その少女にその歌はどういう意味かと尋ねたところ、少女は「何も申しません、ただ歌を歌っただけです」と言って姿を消しました。 大毗古命は都に戻りこの事を天皇に伝えると、天皇は「これは山城国の異母兄弟の建波邇安王(たけはにやすのみこ)が謀反を起こすに違いない」と言って、大毗古命と日子国夫玖命(ひこくにぶのみこと)を派遣し、建波邇安王を矢で撃ち殺しました。 そのため建波邇安王の軍は散り散りとなり逃げました。それでも逃げる敵兵を負いせめ久須婆(くすば)の渡場まで行ったときに敵兵は攻められて脱糞してしまい、袴にかかるありさまでした。それからその地を糞袴(くそはかま)といいます(現在は楠橋といいます)。 更に敵兵を追って切り殺し、平定して、その事を天皇に報告しました。

<東国平定>
そして大毗古命は初めに命じられたとおりに越国に下っていき、東海道から派遣した建沼河別命と会津で合流して一緒になりました。そのため、この地を会津といいます。 こうして天下は太平になり、天皇の御世を称え、初国知らしし御真木の天皇と呼びました。

■垂仁天皇

垂仁天皇は師木の玉垣宮にて天下を治めました。垂仁天皇が沙本毘売命(さほびめのみこと)を皇后にした時に、沙本毘売命の兄の沙本毘古王(さほびこのみこ)が妹に対して 「夫と兄どちらを愛しているか」といったところ、妹は「お兄さんを愛している」と言いました。すると兄は二人で天下を治めようと言い、妹に小刀を渡し、「天皇が眠っている時に刺し殺せ」と言いました。 妹は天皇が寝ている時に首を指そうとして三度振り上げましたが、結局刺すことができず、その涙が天皇の顔の上にこぼれ落ちました。天皇は驚き目覚めて皇后に尋ねたところ、皇后はもはや隠せないと思って事の経緯を天皇に伝えました。

<沙本毘古王の反逆>
天皇はそれを聞いて沙本毘古王を撃とうとした時に、皇后は兄を思う気持ちに耐えられず、天皇を迎え撃つ兄の城に入りました。この時皇后は既に身籠っていたので、天皇はなかなか攻めきれずにいた所、ついに皇后は子どもを出産しました。 皇后は子どもを天皇に引き渡そうと城外に出たところ、天皇側の力持ちで敏捷な軍人が、子供と一緒に皇后も捕まえて引っ張り出そうとしましたが、予め皇后が髪の毛と衣装に仕掛けを行っていたので、皇后を捕まえることができませんでした。

天皇は皇后に、子供の名前をどうするか尋ねたところ、皇后はその子供に本牟智和気王(ほむちわけのみこ)と名づけました(本牟智和気王は大人になっても物を言う事ができなかった)。その他にも天皇は「どのように教育すべきか」「お前が結び固めた下紐は誰が解くのか」などの会話を重ねましたが、 そのあと天皇はついに沙本毘古王を殺してしまいました。そしてその妹の皇后も兄と一緒に死にました。

<本牟智和気王>
本牟智和気王は髭が長く伸びてみぞおちに届くまでの年になっても話すことができませんでした。しかし、空高く飛んでいく白鳥の声を聞いて初めて片言で話しました。 天皇はその白鳥を捕まえさせ、その子の前に持ってきましたが話すことはありませんでした。

この事に天皇は心配になって寝ている時に「私の宮を天皇の宮殿のように整備するならば御子は必ず物を言うでしょう」というお告げがありました。 天皇は占いによって、どの神のお告げだったのかを占ったところ、その祟りは出雲大神(大国主神)のものであることが分かりました。 そこでその御子を出雲大神の宮を参拝させる時に、誰を付き添わせるか占ったところ、曙立王(あけたつのみこ)が良いと出ました。そこで曙立王に命じて「出雲大神を拝むことで本当に良い効果が得られるならば、池のサギよ誓約どおりに落ちろ」と言ったところ、 サギは地に落ちて死にました。次に「誓約どおり生き返れ」と言うと、サギは復活しました。また大きな樫の木を誓約どおりに枯らし、蘇生させました。こうして曙立王と弟の菟上王(うなかみのみこ)を御子に付き添わせて出雲まで参拝に行きました。

こうして出雲の参拝をし終わって都に帰る時に、本牟智和気王が滞在している所で食事をしようとした時に「この川下の青葉の山は山のようであるが山ではない。もしかしたら出雲に鎮座する大国主神の祭場なのか」と言いました。 この言葉を聞いた曙立王と菟上王は喜んで知らせの早馬の使者を天皇のもとに差し上げました。

その間本牟智和気王は一夜、肥長比売(ひながひめ)と結婚しました。ところが本牟智和気王がその乙女を密かに覗き見すると蛇でした。本牟智和気王はその姿をみると恐れをなして逃げました。 その事に肥長比売は傷ついて海原を照らして船で追ってきました。それを見て一層恐れて、山のくぼんで低くなった所から船を引っ張り超えて都へと帰りました。 都に戻った曙立王は「出雲大神を拝んだことによって御子は話せるようになりました」と言い、天皇は喜んで出雲大神の宮を造りました。

<比婆須比売命>
天皇は沙本毘売命が言うとおりに、美智能宇斯王(みちのうしのみこ)の娘の、比婆須比売命(ひばすひめ)、弟比売命(おとひめ)、歌凝比売命(うたごりひめ)、円野比売命(まとのひめ)、の4姉妹を妻として迎えようとしましたが、 比婆須比売命と弟比売命だけを残し、歌凝比売命と円野比売命は、容姿がとても醜いため故郷に送り返しました。このことで円野比売命は恥じて木の枝に首を吊って死のうとしました。また、弟国に着いた時についにけわしい崖から落ちて死んでしまいました。

また天皇は、多遅多摩毛理(たぢまもり)を常世国へと派遣して、季節を問わず芳ばしく実る木の実(橘)を求めました。しかし多遅多摩毛理がその木を手に入れて戻った時には天皇は既に崩御していました。多遅多摩毛理はそのまま叫び泣き果てて死んでしまいました。 そして比婆須比売命が亡くなった時に、石棺作を定め、土師部を定めました(埴輪を埋めるようになった)。




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