安康天皇, 雄略天皇 (古事記)



古事記

公開日:2025/2/21     

関連知識
 ・登場人物, 神の系図
 ・前の話:反正天皇, 允恭天皇
 ・次の話:清寧天皇,顕宗天皇,推古天皇まで


■安康天皇

穴穂御子(安康天皇)は石上の穴穂宮で天下を統治しました。天皇は弟の大長谷王子のために、根臣を大日下王の家に派遣して「あなたの妹の若日下王を大長谷王子と結婚させたい」と言って、大日下王はこれを承諾し、冠を根臣に持たせて献上しました。 しかし根臣はその冠を盗み、天皇には「自分の妹を同じ血族の末席に置くわけにはいかない」と言って断りましたと、言いました。これを聞いた天皇は大日下王を怨み、大日下王を殺して、妻の長田の大郎女を奪い取って皇后としました。

<目弱王、天皇を殺害>
それから後、天皇は神の御心を知るための床で昼寝をしていました。その際に皇后に対して「私にはずっと気がかりなことがある。それはそなたの子の目弱王(まよわのみこ)が、私がその父親を殺したことを知ったら、謀反の心を起こすのではないか」と言いました。 その時、ちょうど御殿の床下で遊んでた目弱王がこの言葉を聞いて、天皇が寝ているのを狙い、太刀で天皇の首を斬り、都夫良意富美(つぶらおおみ)の家に逃げいりました。

<大長谷王子の怒り, 黒日子王と白日子王の殺害>
大長谷王子がこの事件を聞いて憤慨し、兄の黒日子王(くろひこのみこ)の所にいき、「誰かが天皇を殺しました。どうしましょう」と言いました。しかし黒日子王は驚きもせず緊張感も見られなかったので、 大長谷王子は兄を罵り、襟首をつかんで太刀で打ち殺してしまいました。次にもう一人の兄の白日子王の所に行き事情を同じ様に告げましたが、反応が黒日子王と同様だったので、襟首をつかんでひきずり、 穴を掘って、立たせたまま埋めたところ、腰まで土に埋まった時になって二つの目玉が飛び出して死んでしまいました。

<大長谷王子、目弱王を滅ぼす>
それから軍を起こし、都夫良意富美の家を包囲し、自分が約束を言い交した乙女はこの家の中にいるかと聞きました。すると都夫良意富美は八回拝礼をし、自分の娘である訶良比売(からひめ)を献上しました。 しかし自分を頼りにしている目弱王のことは死んでも見捨てることは出来ないと言って、戦いは続きました。 しかし矢が尽きてしまい、もはや戦う事は出来ませんと、都夫良意富美が目弱王に言ったところ、目弱王は「ただちに私を殺してくれ」と言いましたので、都夫良意富美は王子を刺し殺し、自分の首も切って死にました。

その後、大長谷王は狩りをしに市辺之忍歯王(いちのへのおしはのみこ)に蚊屋野に行きました。その野に着いた時にそれぞれ別々に仮宮を作って宿泊しました。そして翌朝、まだ日も出ないときに忍歯王は大長谷王のお供の人に 「まだお目覚めでないので、早く申し上げるがよい。夜はもう明けている」と言いました。お供の人は大長谷王に「尋常でない物言いをする王子です。用心してしっかりと身の護りをお固めください」と言いました。 大長谷王は鎧を身に付け弓矢を持って馬に乗って出ていき、忍歯王を射落としました。そしてその体を切り刻み、馬の飼い葉桶にに入れ、地面と同じ高さに埋めてしまいました。 これを聞いた忍歯王の息子である、意祁王(おけのみこ)と袁祁王(をけのみこ)は播磨国へ逃亡し、身分を隠し、馬飼・牛飼になりました。

■雄略天皇

大長谷王(=雄略天皇)は長谷の朝倉宮で天下を治めました。天皇は大和から河内に行く途中に鰹木を屋根の棟に上げて造った家がありました。 天皇は「天皇の御殿に似せて造っている」といって、その家を焼かせてしまおうとしましたが、家の主は恐れおののき、地面に頭をつけたまま謝り、贈り物として犬を献上しました。 天皇は火を作ることを取りやめ、目的の若日下部王のもとに行き、求婚の礼物としてその犬を下賜いたしました。 しかし若日下部王は「日に背を向けておいでいただいたのは誠に恐縮ですので、私がじかに陛下のもとに参上します」といいました。 こうして天皇は宮廷に帰る時に日下の山の坂の上に行き歌を歌い、若日下部王に贈りました。

<赤猪子の悲哀>
またある時、河のほとりで衣を洗う美しい乙女の引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)がいたので、天皇は「おまえは結婚せずにおれ、ほどなく宮廷に召し入れよう」と言って宮廷に帰りました。 赤猪子は、天皇から言われたことを待って八十年が過ぎました。赤猪子は「天皇を待っている間に多くの年が過ぎ、自分の姿は痩せしぼみ、頼みとする美貌もない。しかし待ち続けて今に至る私の気持ちを天皇に打ち明けなければ、耐えられない」 と思って、たくさんの贈り物を持ち、宮廷に参上しました。しかし天皇は、以前に赤猪子に言ったことを全く忘れていて、赤猪子に「お前はどこの婆さんか、どういう訳で参内してきたのか」と言いました。 赤猪子は事情を説明し、これを聞いた天皇はとても驚き、「私はすっかりそのことを忘れていた。それなのにお前が言ったことを守り通し、むなしく乙女盛りの年を過ごしてしまったのがなんとも哀れで悲しい」と思い、 結婚は成しえないことを哀れんで、次の御歌を贈りました。

引田の若栗栖原(若い栗の木の林)
若かった時に共寝しておけばよかったものを
こんなに老いてしまっているとは


この御歌に赤猪子が泣き涙は溢れ、着物のそれをすっかり濡らし、答えて歌を歌いました。こうして天皇は老女に多くの物を与えて返してしまいました。

また天皇が吉野の離宮に行ったときに吉野川のほとりに美しい乙女がいました。そこでこの乙女と結婚して離宮に帰りました。それから後に、再び吉野に行ったときにその乙女を以前出会ったところに留め、 椅子に掛けて琴を弾いて、その乙女に舞をまわせました。その時に歌を歌いました。

それから、天皇が狩りをして椅子に座っているときに虻が腕をかみました。そこへ蜻蛉(あきず)が飛来して虻をくわえて飛びました。これにより歌を歌い、その地を阿岐豆野(あきずの)というようになりました。

<一言主神との出会い>
またある時、葛城山に登っている時に大きな猪が現れ、天皇は鏑矢でその猪を射た時に、猪は怒っては向かっておってきました。天皇は恐れて木の上に逃げ登り、そこで歌を歌いました。 またある時、葛城山に登っている時に、向かい合う山の尾根に天皇の行列にそっくりの行列がありました。天皇は「この大和の国に我の他に二人と王はいない。その者は誰であるか」と尋ねたところ、 相手の答えて言うありさまも天皇の言葉と同じでした。そこで天皇はたいそう怒って、弓矢を構えました。すると向こうの人たちも弓矢を構えました。 天皇は「そなたの名を名乗れ」と言ったところ、相手は「葛城之一言主之大神(かつらぎのひとことぬしのおおかみ)である」と言いました。天皇はあなたが大神であると気が付かなかったと述べて、 身に付けている刀と弓矢を始めとして多くの官人の着ている服を脱がせて献上しました。一言主大神は手拍子を打って献上物を納めました。それから天皇が帰る時に大神は山の端まで行列を一杯にして山の入口まで送りました。

<三重の采女の失態>
また天皇が、たくさんの枝が伸びている欅の木の下で新嘗の宴会をしている時に、伊勢国の三重の采女が天皇の杯を高く捧げて献上しました。 この時、欅の葉が杯に入り、采女は葉が杯に浮いているのを知らずそのまま天皇に献上してしまいました。天皇はその葉をみて、采女を打ち伏せ首を切ろうとした時に、采女が「私を殺さないでください、申し上げたいことがあります」と言って、次の歌を歌いました。 「杯に落ちた葉は、伊邪那岐と伊邪那美が水をこおろこおろと掻きならして作った淤能碁呂島のように浮かんで見えます。これぞ正に陛下の御威光のしるしです」。そして天皇はその罪を許し、采女を褒めてたくさんの物を贈りました。




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