神武天皇の東征 (古事記)



古事記

公開日:2025/2/19     

関連知識
 ・登場人物, 神の系図
 ・前の話:火遠理命, 鸕葺草葺不合尊
 ・次の話:綏靖天皇~開化天皇


■神倭伊波礼毘古命の東征

神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこ:イワレビコ, 神武(じんむ)天皇)と兄の五瀬命(いつせのみこと)は高千穂宮に行き、「どこの地にいたら天下の政を平安に治めることができるだろうか。更に東に行こうと思います」と言い、さっそく日向から出発し、筑紫に行きました。 途中で豊国の宇沙に到着した時に、宇沙都比古、宇沙都比売の二人が足一騰の宮を作り、ご馳走を差し上げました。そこから移り、筑紫の岡田の宮に一年滞在しました。その後、安芸の国の多祁理宮(たけりのみや)に七年間滞在しました。 その後、吉備の高島宮に八年滞在しました。そして、吉備国から上っている時に、亀の甲羅に乗り釣りをしながら羽ばたくように袖を動かしながらやってくる人に速吸の海峡で出会いました。そしてその人を呼び寄せ、従えさせて船に引き入れました。 その人には槁根津日子(さおねつひこ)と名づけました。

その後、難波の渡りを通過し青雲の白肩の入り江に停泊している時に、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ)が戦を仕掛けてきました。そこで盾を取り出して船から降りました。その為この地を楯津(日下の蓼津)といいます。 この時、登美毘古の射た弓で五瀬命が手に深い傷を負いました。そして「日の神の子孫として日に向かって戦う事は不吉だった。だから賤しいやつから深手を負ったのだ。なので向きを変えて遠回りして日を背中にして敵を撃とう」と誓い、 南の方向をめぐって行く時に、血沼の海について、その手を洗いました。そこから更に回って、紀伊の国の男の港について、五瀬命は「賤しいやつのために手傷を負って死ぬのか」と言われて男たけびをあげて亡くなりました。 それでその港を男の水門(おのみなと)といい、御陵は紀伊国の竈山にあります。

■八咫烏の先導

イワレビコは男の水門から回り、熊野村に着いた時に大きな熊が現れ消え失せました。するとイワレビコと兵士たちは突然正気を失い倒れてしまいました。この時、熊野の高倉下が一振りの太刀を持ち、イワレビコが倒れている所にやってきて献上すると、全員正気を取り戻し目覚めました。 イワレビコはその高倉下にその刀をどうして手に入れたかを聞いたところ、 高倉下は「私が夢で見たところ、天照大御神と高木の神が建御雷神に『葦原中国が騒がしいようなのでもう一度天降りせよ』と言われたところ、建御雷神は『私が天降りしなくてもその国を平定した太刀があるので、それを降ろしましょう (この太刀を布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)という)』と言い、 建御雷神は私に『この太刀を授けるので天つ神の子孫に献上しなさい』と言われたので、その通りにしました」といいました。そして高木神の教えによると、ここより奥には荒ぶる神がいるので、今すぐ天上界から遣わせた八咫烏(やたがらす)に道案内をさせなさい、とのこと。 そこでその教えのとおり八咫烏の後をついていったところ、吉野河の河口に着きました。そこで何人かの国つ神に出会い、その後宇陀に着きました。

宇陀には兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)がいて、先ず八咫烏を遣わしたところ、兄宇迦斯は鏑矢で八咫烏を追い返し、更に迎え撃つために地域の部族の軍を集めようとしました。 しかし十分に集めれなかったため、大きな建物を作り、その中に踏めば圧殺する仕掛けを作り、そこに「お仕えします」と偽っておびき寄せようとしました。 しかしその間に弟宇迦斯が先に参上し、兄の企みを伝えに来ました。そこで、大友連の祖先の道臣命と久米値らの祖先の大久米命の二人が兄宇迦斯を呼び、先にこの建物の中に入って見せよと言って、太刀の柄を掴み矛を突き出し矢をつがえてこの建物中に追い入れた途端、兄宇迦斯は自分が作った機械に打たれて死にました。 そこで、死体を引っ張り出して切り刻み散らしました。それでその地を宇陀の血原といいます。それから弟宇迦斯が献上した御馳走は全て兵士に与え、その宴の時に歌を歌いました。

そして、土雲を倒した時も、登美毗古(ナガスネヒコのこと)を倒した時も、兄師木と弟師木を倒した時も歌を歌いました。 この様に進軍していると饒速日命(にぎはやひのみこと)が参上し、「天つ神の子孫が降られたと聞いたので、自分も後を追って降ってきました」と言い、天上界にいた印の玉を献上して仕えることになりました。 この饒速日命が登美毗古の妹の登美夜毗売と結婚して産んだ子は宇麻志麻遅命(うましまじのみこと)と言います。

こうしてこの様に荒ぶる神々を平定し、従わない人を退けて、畝傍の橿原宮にて天下を治めました。



■伊須気余理比売

イワレビコ(神武天皇)は日向にいた時に阿比良比売(あひらひめ)と結婚して産んだ子を多芸志美美命(たぎしみみのみこと)といいます。 そしてこの地で皇后となる人を求めた際に、大久米命が「勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)という美しい女がいて、それに三輪の大物主が惚れて朱塗りの矢に姿を変え、乙女が大便をする時に溝から流れてきて乙女の陰部を突いたのです。 そして男がその乙女と結婚して産んだ子が伊須気余理比売(いすけよりひめ)です」と言いました。そしてある時、七人の乙女が高佐士野を歩いている中に伊須気余理比売がいることに天皇が気が付き、歌で妻にすることを伝えました。 伊須気余理比売はそれに応え、その家に天皇と一晩泊まりました。こうして生まれた子は、日子八井命(ひこやいのみこと)、神八井耳命(かんやいみみのみこと)、神沼河耳命(かんぬなかわみみのみこと)と言います。




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