五・十五事件, 二・二六事件の概要



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公開日:2025/4/6  

五・一五事件, 二・二六事件の概要についてまとめます。

■五・一五事件

五・一五事件(ごいちごじけん)とは、1932年(昭和7年)5月15日に、海軍将校らによって引き起こされたクーデター事件のこと。 当時、日本は深刻な不況に苦しんでいましたが、多くの国民は満州国の建国によって事態が好転すると期待していました。 しかし、総理大臣の犬養毅は満州国を承認しない方針をとっており、これに不満を抱いた軍部の青年将校たちは、総理公邸を襲撃し犬養毅を射殺しました。

事件はすぐに鎮圧されたものの、世論の同情を受けたため、関係者たちには非常に軽い処分が下されました。 この事件をきっかけに、日本の政治は急速に軍部主導へと傾いていきます。また、後を継いだ斎藤実内閣は、満州国の承認に踏み切りました。

■二・二六事件

二・二六事件(ににろくじけん)とは、1936年(昭和11年)2月26日に、皇道派と呼ばれる陸軍の青年将校らによって引き起こされたクーデター事件のこと。 当時、日本は政治腐敗や経済不安に対する不満が高まっており、青年将校たちは「昭和維新」を掲げて、政府の要人たちを排除し、天皇親政を実現しようと決起しました。 彼らは岡田啓介首相ら多くの閣僚を襲撃し、総理大臣官邸や陸軍省、警視庁、東京朝日新聞などを占拠し、昭和天皇に昭和維新断行を訴えました。 この時、元総理大臣の斎藤実や高橋是清らを銃殺しました。

政府や統帥部の上層部には青年将校に同情する意見もあり、侍従武官長の本庄繁は、幾度も青年将校の国を思う精神は認めてほしい旨を奏上するも、 重臣らを殺害された昭和天皇は激怒し、「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」と言って、鎮圧を命じました。

首謀者の安藤輝三たちは処刑され、軍内部では皇道派が没落し、統制派が主導権を握ることになります。この事件により日本は軍部主導の体制をさらに強化し、戦争への道を加速させていきました。

■皇道派と統制派の違い

皇道派と統制派はどちらも陸軍派閥の事です。皇道派は政財界らを排除し、天皇を中心とする政治体制を説いていました。 統制派は永田鉄山らによって作られた皇道派に対抗する組織で、軍隊を通じて政治上の要望を実現する体制を目指していました。

皇道派は永田鉄山を斬殺した相沢事件や、二・二六事件などによって没落し、統制派が勢いをつけました。その後の統制派の代表人物として東条英機がいます。




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