幕末から明治にかけての流れ



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公開日:2018/8/19 , 最終更新日:2020/9/10   

■時代背景, 尊王攘夷運動とは

1853年 アメリカのペリーが浦賀に来航し日本に開国を要求しました。当時の日本では外国との交流を制限する「鎖国」が続いていたためペリーの来航は幕府にとって大きな衝撃でした。 幕府は諸藩に意見を求めるなど対応に苦慮し、これまでの幕府の権威が揺らぎ始めます。もともと日本には古くから天皇を尊ぶ「尊王」の思想や、外国勢力を日本から排除しようとする「攘夷」の思想が存在していました。 ペリー来航によって外国への危機感が高まると、これらの思想が結びつき「尊王攘夷※」という政治的な運動へと発展していきました。 さらに幕府は1858年に朝廷の許可(勅許)を得ないままアメリカなどと通商条約を結びました。このことは「幕府が天皇の意思を無視して外交を行った」と受け止められ幕府への批判を一層強めることになります。 特に長州藩や薩摩藩などでは尊王攘夷の動きが強まり幕府に対抗する政治勢力が成長していきました。しかし実際に外国勢力と衝突すると、その軍事力が日本よりはるかに強大であることを思い知らされます。 その結果、外国を単純に追い払うのではなく、「外国に対抗するためには日本自身が近代化しなければならない」という考え方へと転換していきました。 そして幕府を倒して新しい政治体制をつくろうとする倒幕運動へとつながり、最終的に明治維新へと至ります。

※「攘」は"払いのける"、「夷」は"異民族"を意味します。 「夷」という言葉は古代中国で、周辺の異民族を指す言葉として使われ、日本でも外国人や朝廷から見て東方に住む人々などを指す言葉として用いられました。 「蝦夷(えみし)」もその一例です。

■年表



■登場人物



<維新三傑>
◆ 西郷隆盛 [1828-1877]
薩長同盟の成立に尽力し、戊辰戦争では新政府軍の中心人物として戦いました。特に勝海舟との交渉によって江戸城の無血開城を実現したことは大きな功績です。 明治維新後は新政府の要職を務めましたが、征韓論をめぐって大久保利通らと対立し政府を辞職して鹿児島に戻ります。 その後、政府の士族政策に不満を持つ旧士族たちが鹿児島に集まり西郷を中心とする勢力が形成されました。 1877年 西郷は政府軍と戦う西南戦争を起こし敗北して自決します。西郷は単純に「意見が合わないと武力に訴える人物」ではなく、政治的対立と士族社会の不満が複雑に絡み合う中で戦争に至った人物です。 明治維新を実現した英雄である一方、その維新によって生まれた新政府と最後には戦うことになってしまいました。

◆ 大久保利通 [1830-1878]
西郷隆盛らとともに倒幕運動を進め薩長同盟の成立や王政復古に尽力しました。 明治維新後は政府の中心人物となり廃藩置県によって藩を廃止して中央集権国家を築き、地租改正、殖産興業、富国強兵などを推進しました。 1871年の岩倉使節団では欧米を視察し近代国家の制度や産業を日本に取り入れることを重視しました。 一方、士族の特権を廃止・縮小する政策を進めたため、旧士族から強い反発を受けました。 征韓論をめぐって西郷隆盛と対立し西郷が政府を去った後も中央集権化と近代化を推し進めました。 1877年の西南戦争では政府軍を率いて西郷の反乱を鎮圧し、その翌年、士族の不満を背景とした紀尾井坂の変で暗殺されました。 大久保は、幕府を倒しただけでなく明治維新を近代的な中央集権国家へと具体化した国家建設者と評価されます。

◆ 木戸孝允 [1833-1877]
幕末には桂小五郎の名で活動し尊王攘夷運動に参加しました。長州藩が蛤御門の変で敗北すると追われる身となりましたが各地に潜伏しながら政治活動を続けました (逃げの小五郎と呼ばれる)。 最大の功績の一つが坂本龍馬らの仲介によって実現した薩長同盟です。当時、敵対していた薩摩藩と長州藩を結びつけ倒幕の強力な基盤を作りました。 明治維新後は木戸孝允と名を改め、五箇条の御誓文や版籍奉還、廃藩置県など、新しい中央集権国家の形成に尽力しました。 欧米の近代国家を参考に日本を近代化する必要性を強く認識していました。一方、急速な中央集権化や士族政策をめぐって政府内でも意見が分かれ、晩年には西郷隆盛の政府離脱や西南戦争に心を痛めました。 1877年 病のため44歳で亡くなりました。木戸は幕府を倒すための政治的連携を築き、維新後には新しい国家の制度設計にも携わった「政治的設計者」と評価できます。

<上記以外の人物>
◆ 坂本龍馬 [1836-1867]
土佐藩出身の志士で、薩長同盟の成立や大政奉還に関わりました。外国の軍事力を目の当たりにする中で攘夷の限界を認識し、開国や貿易、海軍の育成などを重視するようになり、 1865年には長崎で亀山社中(のちの海援隊)を組織し、貿易や航海を通じて新しい日本のあり方を模索しました。 また敵対していた薩摩藩と長州藩の協力が倒幕に必要だと考え、両藩の間を仲介し、1866年の薩長同盟成立に重要な役割を果たしました。 さらに土佐藩を通じ徳川慶喜に政権を朝廷へ返す大政奉還を進言するなど、幕府に代わる新しい政治体制を構想しました。 しかし明治維新を目前にした1867年、京都の近江屋で暗殺され31歳で生涯を終えました。 龍馬は現代では圧倒的な人気を誇りますが維新の三傑に選ばれていないのは、明治政府の成立後に政治の実権を担うことがなく、国家の制度設計や運営への直接的な関与という点では、 西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允の三人に及ばないためです。 現在の龍馬の人気には、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』が大きな影響を与えており、私たちが抱く「自由で先見性のある英雄」という龍馬像の形成に大きく寄与しました。

■内閣総理大臣は山口県出身が多い

長州藩と薩摩藩が倒幕し現在の政府を作ったことから、内閣総理大臣は山口県出身の人が多く、これまで8人を輩出しており日本一の人数です。 その名は、伊藤博文、山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三氏です。

なお、2位は5人の東京都です。

■忠臣蔵は全く別の時代

赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城の廊下で吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に切りかかったことに端を発した赤穂事件を描いた忠臣蔵は、1701年の出来事であるため、同じ江戸時代ではありますが時代は異なります。 なお赤穂事件の顛末は、大石内蔵助が中心となった四十七士は、吉良邸に侵入し吉良上野介を討ちとり、その後切腹します。




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