蘇我氏と藤原氏



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公開日:2020/9/12    

■蘇我氏
蘇我氏とは、武内宿禰(孝元天皇の子孫)を祖先に持つといわれ、古墳時代から飛鳥時代にかけて勢力を強めた豪族です。娘を天皇のもとに嫁がせ親戚関係を結び(これを外戚という)、丁未の乱(587)で蘇我氏と台頭していた物部氏を蘇我馬子が打ち破り、 その権力を確固たるものとしました。(蘇我氏は仏教の推進、物部氏は神道の推進派で、もともと仏教と神道を巡る争いを行っていました)

しかし権力を持ち過ぎた結果、崇峻天皇の暗殺や推古天皇への葛城県の割譲の要求、天皇をないがしろにする振る舞いなどによって皇族やその他豪族の反感を買い、 ついに中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足によって蘇我入鹿は宮中で殺されました。蘇我蝦夷もそれを受け邸宅に火をかけ自害しました(乙巳の変:645)。

なお、蘇我氏はこの乙巳の変にて滅ぼされたと認識されることが多いですが、滅びたのは蘇我本宗家で、馬子の子孫の娼子は中臣鎌足の息子である藤原不比等の妻となり、藤原家の子孫を残しておりますし、 馬子の子孫の安麻呂は天武天皇に使え、石川朝臣の姓氏をもらっており、蘇我氏の血脈は続いていきます。

<諸説>
蘇我蝦夷や入鹿は、後の歴史書においてかなりの悪者扱いにされてますが、これは戦いに勝った者の立場で書かれるので、実際にどうだったかは定かではありません。 例えば、蝦夷という名前は明らかに蔑称であるため、本当にその様な字だったとは考えにくい。また、藤氏家伝(706)には入鹿の政を、董卓の暴政に比肩するとまで書かれております。

また蘇我氏は渡来人であるという説があります。それは、蘇我氏の名前が、韓子や高麗など朝鮮半島との関係を連想させる名前を持った人物がいるということ。 蘇我氏が住んでいた奈良県の明日香村北部には、朝鮮半島南西部にある土器と似たような土器が出土したことからです。ただし現時点この根拠は不十分とされてます。



■藤原氏
藤原氏とは中臣鎌足を祖とする氏族で、中大兄皇子と共に蘇我氏を倒したことによって権力を拡大していきました。藤原氏も蘇我氏と同様、天皇のもとに娘を嫁がせ天皇家との関係を強める事で、その地位を不動のものとしていきました。 藤原氏の最盛期は藤原道長(966-1028)の時で「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」は、道長の権力の強さがうかがえる有名な句です。

しかし道長の息子である頼道の代にて、頼道の娘と天皇家との間に子供が生まれなかったため、その勢力は衰えていく事になりました。とは言っても藤原氏の子孫は現代まで続いており、その代表が五摂家と呼ばれる、「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」家です。

<諸説>
蘇我氏だけではなく、中臣鎌足も渡来人(百済の豊璋)であるという説があります。 その理由は、中臣鎌足が蘇我入鹿を倒した際に、古人大兄皇子が「唐人(韓人)にやられた」と叫んだということが日本書紀に書かれていること、歴史に突然出てきて出自が不明な事、 その他には白村江の戦いにも解る様に百済を救うことに固執している(鎌足が中大兄皇子にそう進言したとされる)こと等からです。

非常に興味深いですが、この説も現時点はっきりとした証拠がある訳ではありません。




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