十返舎一九, 東海道中膝栗毛



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公開日:2025/9/6   

十返舎一九の東海道中膝栗毛の内容について「現代語訳 東海道中膝栗毛」の内容に沿って説明します。

<作者>十返舎一九, 伊馬春部 訳
<発行日>2014年7月
<出版社>株式会社 岩波書店

■十返舎一九とは

十返舎一九(1765~1831)は、江戸時代後期の戯作者で、本名は重田貞一、駿河国(現・静岡市)の出身。 庶民の言葉や生活を題材にした滑稽本の第一人者で、代表作である本作は弥次郎兵衛と喜多八という二人の道中を描いた滑稽な旅行記で、東海道の宿場を舞台にした珍道中や会話のやりとりが人気を博し大ベストセラーとなった。 以後も続編が数多く出版され、江戸の庶民文化を象徴する存在となった。一九は文章だけでなく挿絵も自作することが多く、文と絵を組み合わせて読者を楽しませた点が特徴的である。 号の「十返舎一九」は「十遍謝してもまだ一九(足りない)」という洒落で、彼のユーモラスな人柄を表している。晩年は病に悩まされながらも俳諧や狂歌を嗜み、洒落っ気のある以下の辞世を残した。

「此の世をは とりやお暇に線香の 煙とともに灰さようなら」



■弥次郎兵衛と喜多八の人物像

弥次郎兵衛と喜多八が旅をするに至った理由は以下のとおり、初めに書かれています。

諸国の名所や景勝地を見物して、その光景を頭に刻み、平和な世のありがたみをぼんやりした頭にも染み込ませ、帰ってから茶飲み話の種にしようと考えた二人連れの友達がいた。

山の尾のように長い道中をしようということで、財布の口をしっかり結びつけ、花のお江戸を出発したのは、神田八丁で暮らす弥次郎兵衛という名の怠け者。 彼の居候である喜多八も一緒で、軽い旅支度を整え、体力をたっぷり蓄え、そろいの着物を着て、爽やかな風に誘われるままに出発した。

まずはお伊勢参りをし、そのあと大和を巡り、花の都・京から大坂へと旅立ったと思う間もなく、高輪の町にさしかかったあたりで、ふと前の川柳集にあった句を思い出した。

「高なわへ来てわすれたることばかり」

という句である。だが、自分たちは何ひとつ心配も憂いもない気楽な旅人ではないか、と気を取り直す。家財道具の置き場にしていた店賃を払うのは無駄な出費だと考え、荒らされて困るような物は風呂敷に包み、それ以外は気にしないことにしたのだ。 もっとも、菩提寺への付け届けも手加減して少ししか包まず、不義理を忍んで、この際特別に百文だけを納め、旅の通行手形を受け取った。 古銭に代えて関所の手形をもらい、値打ちのある物は見栄えよくして金に替え、がらくたは店の保証人に山ほど押しつけ、礼だけを言って済ませた。 大きな荷物も関家に預け、壊れた簾は向かいの家に譲り渡し、あとには何ひとつ残らなかった。

…と言いたいところだが、やはり気になるのは、酒屋と米屋への古い掛け払いを清算しないまま、こっそり旅に出てきたこと。 きっとひどく恨みに思っていることだろうと、道中で気の毒に思ったのであった。


そのほか作中に描かれている情報をまとめると、以下のとおりになります。ただし年齢は明記されておらず推定となります。

弥次郎兵衛
東海道の旅に出発した当時、数え年50歳。十返舎一九自身を多少モチーフにしているのではないかと考えられる。 駿河国府中出身、実家は裕福な商家であったが、遊蕩が過ぎて作った借金のために江戸へ夜逃げした。 「借金は富士の山ほどある故に、そこで夜逃を駿河者かな」と自らの身の上を詠んでいる。 江戸では神田八丁堀の長屋で密陀絵などを製作して生計を立てていた。 作中では下世話で軽薄な性格として描かれるが、一方で楽器の演奏や古今の書籍に通じ、狂歌や漢詩を用いることから教養の高い人物であることが伺える。

喜多八
旅立ち当時、数え年30歳。弥次郎兵衛の居候で、もともとは弥次郎兵衛の馴染みの陰間であったが、江戸へ駆け落ちしてくる。 ある商家で使用人として奉公したが、使い込みをしたうえに女主人に言い寄ろうとして嫌われ、解雇され行き場を失い、弥次郎兵衛とともに旅立った。



■道中図

泊まった宿は以下のとおり。
 1日目 戸塚宿, 2日目 小田原宿
 3日目 三島宿, 4日目 蒲原宿
 5日目 府中宿, 6日目 岡部宿
 7日目 日坂宿, 8日目 浜松宿
 9日目 赤坂宿, 10日目 宮宿
 11日目 四日市宿, 12日目 松坂宿
 13日目 伊勢山田





■面白い話

<箱根:五右衛門風呂>
旅先の宿で弥次郎兵衛と喜多八は初めて「五右衛門風呂」に出会う。 五右衛門風呂は鉄釜の底に「浮き板(ふた代わりの木の板)」を沈めて、その上に立って湯に入る仕組みですが、二人はその構造を知らない。

まず弥次郎兵衛が風呂に入る。板を外したまま釜に入ってしまい、熱さに飛び上がるはめに。しかし、便所に置かれた下駄を見つけ、これをはいて板の代わりにしてようやく入浴を果たす。 次に喜多八の番。弥次さんは入り方をまともに教えない。ところが喜多さんも勘がよく、隠された下駄を見つけて湯に浸かることができた。 彼は「慣れれば熱くもない」と得意げにふるまうが、次第に湯が熱くなり、下駄をはいたままジタバタしているうちに底板を踏み抜いてしまう。 お湯が一気に流れ出し、尻もちをついた喜多さんを見て、弥次さんは腹を抱えて大笑いした。

<三島:すっぽん騒動>
夜も更け、灯りも尽きて真っ暗になった宿。誰も気に留めなかった床の間の包みから、すっぽんが這い出して大騒動を巻き起こす。 ゴソゴソ音に北八が目を覚ますと、すっぽんが夜着に潜り込み、慌てて放り投げた先は弥次郎兵衛の顔。 さらにその指にガブリと噛みついた。弥次は「痛い痛い!」と大騒ぎし、お竹は驚いて転んで屏風ごと倒れ、部屋中大混乱。 暗闇で北八は無駄に手を叩き、お竹は「灯りを早く!」と叫び、弥次は痛みに転げ回る。まさに修羅場のさなか、こっそり十吉は金を盗み、石ころとすり替えるという手際の良さ。 やっと宿の女房が灯を持ってきて真相が分かると、すっぽんは指にしがみついたまま離れない。水につければよいと教わり、ようやく逃がしたが、弥次はすっかりくたびれ顔。 北八は「珍事中の珍事」と笑い飛ばし、すっぽん騒動を題材にふざけた歌まで詠む始末。痛がる弥次を横目に、笑いが止まらぬ一夜の騒ぎであった。

<島田:大井川を渡る>
藤枝宿を発った弥次郎兵衛と北八は、大井川の手前にある島田宿へ到着する。 川は朝方ようやく水勢が落ち着き、多くの旅人で賑わっていた。川越人足たちは高値をふっかけ、二人分で八百文と言う。 弥次郎兵衛は法外だと怒り、川問屋に正式に頼もうとする。そこで一計を案じ、北八の脇差を借りて大小二本に見せかけ、自分を侍、北八を供侍に仕立て上げて問屋へ乗り込む。 大名行列を従えてきたと大ぼらを吹くが、実際は二人だけ。問屋は疑いながらも運台で二人分四百八十文と告げる。さらに弥次郎兵衛が値切ろうと強気に出たところ、脇差の代用にしていた木刀が柱に当たって折れ、正体が露見。 周囲の人々の嘲笑に赤面し、二人は慌てて退散する。川問屋も呆れて笑い飛ばすのだった。やがて川端に向かい、人々に混じって運台に乗ると、大井川の水は逆巻き、流れは恐ろしく速い。 命がけで渡る難所に身を置き、二人は肝を冷やすが、無事に渡りきった時の喜びは格別だった。 弥次は「蓮台に乗った気分は地獄のようで、降りた時がまさに極楽」と狂歌に詠み、旅の苦難を笑いに変えるのであった。

<日坂:夜這い騒動>
雨の中ようやく日坂宿にたどり着いた弥次郎兵衛と北八は「旅籠屋」に泊まる。 そこで巫女たちに会い、弥次は亡き母や妻の霊を口寄せしてもらう。不思議さと興味で盛り上がった二人は、その夜、若い巫女を相手に夜這いを企む。 先に北八が暗闇を抜けて忍び込み、運よく相手のほうから手を引かれて、ひととき契りを交わすと安心して眠ってしまう。 後から弥次が様子を知らずに奥へ入り込み、寝入った北八を若い巫女と勘違いして唇に口づけ。さらに夢中で噛みついたため、北八が飛び起きて大騒ぎに。 巫女も目を覚まして叱りつける中、二人は大慌てで退散しようとする。ところが今度は年老いた巫女が弥次を捕まえ、「ここまでしておいて逃げるとは薄情だ、夜明けまで一緒にいなさい」と迫る。 弥次は必死に否定し逃げようとするが、老巫女はしがみついて離れない。怒った弥次は突き飛ばして逃げ帰り、「若い女と思ったら北八だったとは情けない」と川柳めいた歌で自嘲する。 こうして色欲が招いた珍騒動は、笑い話として夜明けを迎えるのだった。

<桑名へ:船中小便騒動>
船は順調に進み、乗客たちはにぎやかに雑談していた。 やがて弥次郎は小便がしたくなり、宿の主人から渡された「竹筒」を取り出す。 これは先端に穴があいていて、船べりから突き出して用を足す道具だったが、弥次郎は仕組みを知らず、「いったん筒にためて、あとで海に捨てるもの」と勘違いしてしまう。 そのまま混み合う船中で用を足したため、小便は先端の穴から勢いよくあふれ出し、船の中は大洪水。 乗客は「水が漏れてる!」「紙入れまでビショ濡れだ!」と大騒ぎになり、ついに「小便じゃないか!」とばれてしまう。弥次郎は慌てて帯で拭き取り、北八が敷物を敷き直して事態を収めた。

弥次郎は赤っ恥をかき、乗客たちは苦笑しつつ、船は無事に桑名へ到着。皆で「小便には濡れたが、船はつつがなく着いた」と笑い合い、酒を酌み交わして旅を続けるのであった。

<京都>
弥次郎兵衛と北八たちは京都の茶屋で料理を食べることになる。彼らは次々と料理の値段を聞き出し、その高さに文句を言いながらも、出されたものは平らげてしまう。 いざ勘定となると、彼らは「丼はいくら、鉢はいくら」と器の値段を料理代と勘違いして、器ごと持ち帰ろうとする始末。女中は冗談と思って笑いますが、彼らは真顔で風呂敷に器を包み始め、店中があきれる騒ぎとなる。

そこへ料理場から店の男が出てきて、「器代はいただきましたが、中身の料理代はまだです」と切り返し、実際の支払いを求めます。提示された額は七十八匁五分。 弥次郎らは「法外だ」と反発し、「菜っ葉一皿で七十五文とはぼったくりだ」と怒りだす。しかし店側は「京名物で手間をかけている」と理屈を並べ、食べたものを返せと言い出す始末。 屁理屈自慢の弥次郎たちも言い負かされ、しぶしぶ支払いに応じるしかなかった。

結局、彼らは大恥をかいて茶屋を後にし、悔しさまぎれに「田楽豆腐めら、覚えてろ」と捨て台詞を残します。女中が「またどうぞ」と愛想を振りまくのに対し、「くそくらえだ」と強がり笑いしながら立ち去る。

■補足:東海道五十三次とは

東海道五十三次とは、江戸時代に整備された五街道の一つの東海道にある53の宿場を指します。 四日市で京都方面に行く道(五十三次の方)と伊勢方面に行く道に分かれ、弥次喜多はここで伊勢に向かいます。 なお大津から大坂 高麗橋までの4宿 (伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿)を加え、東海道五十七次と呼びます。



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