邪馬台国の場所の論争がうまれる理由



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公開日:2019/8/7 , 最終更新日:2020/8/12   

邪馬台国のあった場所は畿内説と九州説が2大有力説となっておりますが、そもそも2つの場所は大きく異なるのに何故その二つの説がうまれるのか、その理由を説明します。

■主な根拠は魏志倭人伝
魏志倭人伝とは、中国の歴史書である「三国志」に収められている魏書の第30巻 「烏丸鮮卑東夷伝倭人条」の略称であり、三国志は「魏書(30巻)」「呉書(20巻)」「蜀書(15巻)」の計65巻から成り、 西暦280年以降に西晋の陳寿が書いたものです (倭人とは日本のことだと考えられています)。


この魏志倭人伝に邪馬台国のことが記載されているのですが、その解釈によって畿内にあったとも九州にあったとも言える様になっています。その理由をこれから説明していきます。 なお倭人については後漢書にも記述がありますが、後漢書の成立は後漢が滅んでから200年以上後になっており、信憑性はどうなんだろうと個人的に思っております。 (魏志倭人伝は魏の滅亡後、数十年後に成立しております)

■魏志倭人伝の正確さ
現存している魏志倭人伝は当時の書物そのものが残っている訳ではなく、書物が古くなるたび何度も書き写しております。従って、書き写す過程で誤植があったり、書き写した人の解釈が添えられている可能性があります。 そのことから邪馬台国の場所を特定するにあたって、距離や方角が間違って書かれていると解釈し、それが様々な邪馬台国のあった場所の説をうみだしています。

■魏志倭人伝に書いてあること
魏志倭人伝には大きく分けて、①倭の国々 ②生活習慣 ③政治と外交のことが書かれています。邪馬台国の位置を推察するには、主に①の情報が役に立ちますので、ここでは①について説明していきます。

始まりは帯方郡から
出だしは、"倭人在帶方東南大海之中"とあり、倭人は帯方郡の東南の海の中にあると書いております。帯方郡から倭国への行き、倭国についてから邪馬台国への場所へと繋がります。では帯方郡はどこかというと、現在の韓国のソウル付近だと考えられております。 帯方郡から水行し、時に南下、時に東へ行き、7000里の道のりをかけて朝鮮半島の南端にある狗邪韓国につきます。水行とは当時の意味としては陸地沿いに水上を船でいくことです。陸地を離れて海を渡る意味合いは含まれておりません。

1里は3.9kmじゃない
現在の日本では1里は3.9kmですが、現在の中国では1里は500mです、従って7000里は3500kmになるのですが、帯方郡から狗邪韓国までは実際の距離は700kmなので計算が合いません。 これは当時の1里の定義が違ったか、帯方郡から狗邪韓国までの距離を精確に測量した訳ではないので誤差が発生したのではないかと思います。



海を渡って倭国へ
狗邪韓国から初めて海を渡り、千余里行くと対海国に着きます。対海国は現在の対馬と思われます。対馬までの距離は70~80km程度なので、やはり現在の千里とは異なります。 また、南へ海を渡り千余里行くと一大国に着きます。一大国は現在の壱岐と思われます(岐が大に変わった説があります)。

  

末盧国の場所からは諸説分かれてくる
対海国は現在の対馬、一大国は現在の壱岐であることに異論を唱える人はほとんどおりませんが、末盧国からは諸説分かれてきます。 それは、"また一大国から海を渡り千余里行くと末盧国に至る"とありますが、一大国から海を渡って九州に至る場合、近い場所では千里もないからです。 当時の航海技術など安全性を考えたら、海を渡るのにはなるべく最短距離で行くはずと考えるのには不自然は有りません。 従って、記載されている一大国から末盧国までの距離は正しくないという説と、距離は正しかったという説で、末盧国の場所が変わってきます。 前者を支持するならば末盧国は松浦、後者は福岡市や鐘崎あたりという説がありますが、現在は松浦説が有力です。 その理由は、名前が近しく、更に末盧国の次の場所の伊都国に繋がるという理由からです。一方否定する材料は松浦の地形にあり、魏志倭人伝にあるように、松浦は"草木が茂り前を行く人が見えないくらい"山中という訳ではないという事です。



  

伊都国、奴国、不弥国の場所
末盧国が松浦にあるという前提ならば、伊都国はその地名から、現在の糸島市であると考えられております。また奴国は福岡市周辺であると考えられております。これは有名な"漢委奴国王"の金印が志賀島で発見されたことによります。

  

投馬国、邪馬台国への道のり
不弥国から南へ水行20日で投馬国に至り、南に水行で10日、陸行で1か月で邪馬台国に至るとあります。不弥国からは航路で南下する方法は、川を使い有明海から南下する方法と、周防灘から南下する方法が考えられます。

  

南下した距離は相当な距離になると思いますが、帯方郡から邪馬台国までの距離は一万二千里と書いてあり、不弥国に至るまで移動した距離を差し引くと、 不弥国からは1300里の位置に邪馬台国があることになります。ここに矛盾が生じるため、帯方郡から邪馬台国までの道のりは一万二千里であるという事が正しいとする説と、 一万二千里というのは正しくなく、水行計30日、陸行1ヶ月を重要視するという説に別れます。

畿内説論者は後者の立場をとるのですが、更に方角は、南ではなく実際には東であった(魏の認識違い)という解釈が必要になります。 なお海を渡る必要があるので水行(陸沿いに移動した)の記述と矛盾するかもしれませんが、瀬戸内海を渡ると考えると水行ととらえても無理は無いと思います。

九州説論者は前者の立場を取りますが、水行計30日、陸行1ヶ月と一万二千里という矛盾を解消するために、放射説という説があります。 それは末盧国(もしくは伊都国)からの後の国は邪馬台国の途中の道のりではなく、単純に末盧国からの位置関係を示しているだけであって、邪馬台国への道のりは末盧国(伊都国)から南へ水行10日、陸行1ヶ月だけであるという説です。この説を採用すれば一万二千里にかなり近づいてきます。

邪馬台国への道のり以外からわかること
道のり以外の邪馬台国を特定する情報として、邪馬台国は一周五千里(400km~500km)とあり九州の大きさに近いです。また邪馬台国の東に海を渡って千里行くと倭人がおり、これは四国にあたるのではないかと思われます。 邪馬台国が畿内にある場合、東に海を渡って千里行く場所は見当たらないです。また邪馬台国から南に侏儒国という背の低い人が住んでおり、これは種子島にあたるのではないかと考えられています(種子島には背の低い人種がいた)。 これらは九州に有ったことを補強するものであると考えます。

更に魏志倭人伝には、247年に卑弥呼が没したその際に直径百歩余りの大きな塚を立てたとあり、この辺りから古墳時代が始まったとされています。 現在卑弥呼の墓ではないかとされているのが奈良県にある纏向遺跡にある最古級の墓である箸墓古墳であり、それは古墳ができた年代と卑弥呼が没した年代が近いという理由から、そのような説があります。

■魏志倭人伝以外からわかること
魏志倭人伝に最も多く邪馬台国のことが書かれておりますが、隋書にも邪馬台国(邪靡堆)のことが触れられており、邪靡堆は「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」とあります。 隋書は日本の都の事が書かれており、隋の時代の日本の中心は畿内地方でしたから、隋書からは邪馬台国は畿内であると考えるのが自然だと思います。

また考古学的な見地からは、魏が卑弥呼に送ったとされる銅鏡が大阪黄金塚と島根県の新原古墳から発見されており、畿内説を裏付ける根拠と考えられています。 更に、邪馬台国はヤマトとも読め大和政権もヤマトなので、これも畿内説を補強するものだと考えます。

■まとめ
以上のことから、邪馬台国は九州にあるとも畿内にあるとも解釈できることが解りました。 私個人的には魏志倭人伝だけではやはり九州にあった可能性の方が高く、一方隋書の情報からは畿内にあった可能性が高いと考えます。 従って私は、初めは九州にありその後畿内に移動したという、邪馬台国東遷説を支持いたします。 なお、邪馬台国が畿内へ移動後の倭国から日本国への移り変わりについてこちらで説明します。




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