倭国から日本への移り代わり



歴史のこと

日本史

世界史

地方史

  

公開日:2019/8/15    

日本は古くは倭国といいましたが、いつから日本という名前に変わったのか、その歴史を説明いたします。

■倭国の成立
倭人という呼び名は古くは漢書に記されており、紀元前2世紀頃からクニ(人々の集合体)は存在していたと思われます。 また西暦57年に漢の光武帝が漢委奴国王印を倭の奴国に授けていることから、この頃には倭国と呼ばれていたと思われます。 なぜ倭というかは、おそらく自分のことを「わたくし」「われ」など、"わ"という言葉をよく使うために、漢の人達から「わ人」と呼ばれ、わに漢字を当てて倭となったと思われます。

■日本の成立
日本と呼ばれるようになったのは西暦700年あたりで、720年には日本書紀が作られています。日本書紀の編纂を命じた673年には日本という国号が定まっていたと思われます。 日本書紀を編纂する理由となったのは、乙巳の変(645年)で蘇我氏を滅ぼし大化の改新で新しい政権が誕生し、更に壬申の乱(672年)の大きな内乱によって天皇が代わるという大きな変化があったため、天皇家の正当性を主張するため作られたと考えられております。 また日本は、倭がその国のまま名前だけを変えた訳では無いようです。中国の歴史書である「旧唐書」によれば、以下のような意味の記述があります。

 ・倭国は古の倭奴国である。
 ・日本国は倭国の別種である。
 ・倭国は自国の名前が良くないと考え日本という名前にした。
 ・日本は倭国の地を併合した。

つまり、日本国と倭国はもともと別の国(別の人種とは書いていない)であり、畿内にあった王朝が九州の倭国を併合し、その際に倭国も日本と名乗ったという事です。 しかしこの併合に関しては、別の国とはいいながらも、もともとかなり関係が近かったのではないかと思います。それは以下の理由からです。

 ・倭、日本どちらもヤマトと読める。
 ・和風という様に和は倭から来ており、敵国名だったはずの言葉を良い意味で後々まで使用している。

■倭国から日本へ
以上の事と、こちらで説明した邪馬台国の比定地の仮説を踏まえると、以下のような流れで倭国から日本へ移り変わっていったと私は考えております。

 ① 九州で邪馬台国(ヤマト国)が成立し倭国を統一。倭=ヤマトとなる。
 ② その後邪馬台国は畿内地方に東遷し、大和(ヤマト)政権をつくる。勢力範囲は九州から東北南部まで。
 ③ 一方九州では大和政権とは離れ、倭国として独立した国を作ろうとした。
 ④ しかし併合されて、最終的には日本(=ヤマト)として統一された。




関連記事一覧



歴史のこと

日本史

世界史

地方史