ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』の感想



読んだ本のこと

情報科学:00

ジャーナリズム:00

哲学:10

歴史:20

社会科学:30

自然科学:40

技術,工学:50

文学:90

公開日:2019/7/19 , 最終更新日:2020/2/20   

■本の情報
<作者>ユヴァル・ノア・ハラリ
<発行日>2016年9月 (河出書房新社)

以下黒字が本の要約で、緑字が私の感想/コメントです。

■解説



<認知革命>
ホモ・サピエンス(人間)がネアンデルタール人など他のヒト属を駆逐(生物の分類の説明はこちら)し、地球上で繁栄を極めている大きな理由は、サピエンスが約7万年前に認知革命を起こしたからである。(サピエンスが出現する辺りの時系列はこちらを参照)。 しかし、なぜネアンデルタール人ではなくホモサピエンスに認知革命が起きたのかは解っていない。

認知革命とは、虚構すなわち想像上の物語について語れるようになった事である。そうすることで見知らぬ人同士が協力することができ、他の種に打ち勝つこと事ができた。 (なお虚構と嘘は異なる。「ライオンが来た!」と嘘をつくサルはいるが、死後、天国でいくらでもバナナが食べられると説いたところで今持っているバナナを譲ってくれるサルはいない)

虚構が語れる事が何故凄いのか。人と協力する時には意思疎通ができていないと上手くいかない。相手の事を理解した上で協力し合える人数はせいぜい150人程度という。 しかし虚構があれば、同じ信念や思想を共有することができ非常に大人数で協力し合あう事ができる。例えば「あの山には精霊が住んでいて、その精霊を守るために戦うのだ」という様に協力する事ができる。

こうして認知革命における産物として、貨幣、国家、宗教などがうまれ、人類の急速な発展、文明の礎となった。

※ なお本書籍以外でのネアンデルタール人がホモサピエンスに駆逐された理由として言われているのが、ホモサピエンスの残虐性によるものや、ネアンデルタール人は頭部や舌骨などの骨格から、 うまく言葉を話せず意思疎通を図ることができなかった(これは虚構を語る事ができなかった事に繋がるのかもしれない)等が挙げられる。

<農業革命>
約1万年前に農業革命が中東や中国で勃発し、人口が爆発的に増加した。その場所で起きた理由は単純で、農耕と牧畜に適した(家畜にできる動物がいた)土地だったからである。 種の繁栄としては大成功を収めたのだが、個人の幸せとしては狩猟採集時代よりも決して満足のいくものではないと筆者は唱える。 それは人口増加によって一人の分け前は増えておらず、食料を育てるのに今まで以上の時間をかける必要が出てきた。また何より土地や食料を巡って争いが生まれるようになった。 筆者曰く農業革命は史上最大の詐欺であり、小麦の奴隷と化しているという。

これは筆者の皮肉が半分込められていると理解しているが、昔の人の方が本当に精神的に豊かだったか否か、人類の取った道が間違っていたかは解らないと私は思う。 昔に比べ、戦争や病気による死から逃れる事ができ、平均寿命が圧倒的に伸び、戦争と戦争の間の意味である「平和」ではなく、戦争が発生する見込みのない状態である「平和」をつかもうとしている。 これは何もよりも素晴らしいことではないか。筆者は、それでは1000年前の人達に「1000年後の人類は豊かになっているから今は我慢してくれ」と言っても満足しないと述べたのと同様、 1000年前の人達に、「それでは更に2000年前の狩猟民族に戻りたいか?」と聞いても、例え今がつらくても過去の文明に「戻りたい」という人は少ないのではないかと思う。

<宗教>
宗教は「超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度」と定義できる。最も原始的な宗教はアニミズム(精霊信仰)である。アニミズムは自分周辺の狭い範囲にしか影響を及ぼさなかったが、 国家や交易ネットワークが拡大するにつれ、信仰の影響力を高めるために強力な存在の必要性が増してきて、ギリシャ神話などの多神教がうまれた。その次にさらに強力な全知全能の神が存在する 一神教にとって変わられていった。しかし一神教は他の宗教を否定する事と等しく、大きな争いが生まれる要因となった。

また多神教は善と悪の存在という二元論も産んだ。実は一神教には、有名な"悪の問題"があり、「全知全能の神がいるならば、なぜ善い人に悪いことが起こるのか」という事である。 二元論にとっては悪の説明はたやすく、善き神が世界を支配している訳ではなく、悪の力が存在するという考えである。しかし二元論にも弱点はあり「秩序の問題」が解決できない。 つまり、善と悪の争う時の秩序は誰が決めているのかという事である。唯一解決できる考え方は、「全知全能の神がいてその神は悪である」という事だが、そんな信念を抱く気になった人は史上一人もいない。 過去300年間は宗教が次第に重要性を失っていく。代わりに台頭してきたのは、自由主義、共産主義、資本主義、国民主義等のイデオロギーである。 実はこれらは宗教の定義に照らし合わせると宗教に属するものであり、新宗教の台頭であると筆者は述べている。

<科学革命>
500年前に科学革命がおき、聖書に書かれている事がこの世の理の全てで、聖書に書かれていない事は知る必要がないとされてきたのに対し、 無知を知るという発想によって、これまでの世界が大きく変わった。人類は科学研究に投資する事で自らの能力を高められると次第に信じられるようになり、 研究⇒力⇒資源⇒研究というフィードバックループが回るようになった。しかし科学で何を求められるかは宗教やイデオロギーから決まるものである。 世の中が求めていない事には限られた資源を投入する訳にはいかないからだ。

科学革命はなぜヨーロッパから産まれたのか。それはヨーロッパが中東やアジアよりも高い技術力を持っていたからではない。 当時はむしろアジアの方が経済力もあったし、海外進出できる技術力もあった。異なるのはヨーロッパ人が探検して征服したいという、無類の飽くなき野心があったからである。

私はアジアは常に西洋の後塵を拝していると思っていたのだが、そうではないという事が解ったのは意外だった。

科学革命は帝国主義、資本主義を後押しした。科学革命で体験した成長のフィードバックループが回るおかげで、将来に向けた経済成長も信用(クレジット)できるようになり、 経済成長のフィードバックループが回るようになった。市場のパイは拡大しないと考えられていたものが、パイは拡大し続けるという考えに変わり、科学革命のおかげで実際そうなった。 現在では帝国主義は悪の象徴と捉えられがちであるが、実際には人類の発展に貢献した面も大きい。 また、アダムスミスの国富論によれば、「地主にせよ、職人にせよ、必要以上の利益を得たものは、そのお金で更に多くの人を雇い、利益を増やそうとする。 利益が増えるほど雇える人数も増える。従って利益を増やすことが全体の富の増加と繁栄の基本である」という、当時は斬新な、現在では広く知られたる資本主義の基本ともなる 考えが打ち出されていた。

<産業革命>
産業革命は科学革命の延長であると解釈した。エネルギーは有限で近いうちに枯渇すると考える動きもがるが、実はそうではなく逆に使用できるエネルギーは増加しているという。 それは科学の進歩で、既存の資源の効率的な取り出し方だけではなく、全く新しい種類のエネルギーを見つけ出しているからである。今後もエネルギーを使い続けていたとしても、 足りないのはエネルギーそのものではなく、エネルギーを取り出す技術力である。

これには同意。太陽光発電もパネルの製造コストなど考えたら、その費用で直接発電した方がコストが安いので太陽光発電はしない方が良いという人もいるが、 それはまだ発展途上なだけであって、いずれは安価で太陽エネルギーを取り出して活用できる状態になると私は信じている。

<世界平和と人類の幸福>
1945年の第二次世界大戦の終結以降、国家の争いは大幅に減った。地域の紛争は未だに絶えないが、それでも人類の歴史から考えると、人間の暴力で命を落としている人は 格段に少なくなっている。それは戦争のメリットが減る一方、デメリットがこれまでになく大きくなっているからである。デメリットはいうまでもなく核の威力である。メリットはというと、これまでは 天然資源の争奪が目的であったが、現在の資源は人材や技術であり、戦争によって奪う事が難しくなっている。

この様に人類はこれまでにない平和と豊かさ手に入れる事ができたが、果たして本当に幸福になったのだろうか。人間は物質的要因だけではなく、社会的、倫理的、精神的要因によっても 幸福を感じることに大きな影響を与える。特に、人間の期待が幸福感に影響を与える決定的な要因であり、どれだけ豊かであろうが、比較する相手や期待するレベルが高ければ、 幸せに感じる事ができない。ひょっとすると、現代社会に生きる人は繁栄を謳歌しているにもかかわらず、疎外感や虚しさに悩まされていたり、期待に対する裏切りや失望の目にあっているのではないだろうか。

科学的な視点から言えば人生には全く何の意味もなく、人々が自分の人生に認める意義はいかなるものも単なる妄想にすぎない。中世の人々が人生に見出した死後の世界における意義も、現代人が人生に見出す 人間至上主義的意義も全て妄想である。それならば、幸福は人生の意義についての個人的な妄想を、その時々の支配的な集団的妄想に一致させることなのかもしれない。

これは何とも気の滅入る結論である。この他に道はないだろうか?一つの考えとして、仏教の教えがある。
仏教によれば、苦しみの根源は苦痛の感情でも悲しみの感情でもなく、束の間の感情を果てしなく虚しく求め続けることであるという。 感情を追い求めれば求めるほど、心は決して満たされることは無い。苦しみから解放されるのは、そうした感情を渇愛することをやめ、どんな感情もあるがままに受け入れた時である。 確かにこの理屈は一理あるかもしれないが、実際にこれを実践するのは非常に難しく、仏教徒でさえ実践できている人はほとんどいないというのが実情である。

ブッダの教えのとおり悟りを開くことを目的とした仏教を上座部仏教といい、ブッタの教えを広めて多くの人を救う事を目的とした仏教を大乗仏教という(詳細はこちら)。 日本においては大乗仏教が根付いており、ブッタの教えのとおり悟りを開く為に修行している人は、例え教えを広める側の仏教徒(お坊さん)であっても少ない。 高級車を乗り回したり贅沢な暮らしをしているお坊さんは、欲望のままに生きているとしか私には思えない。

いずれにせよ、学者たちが幸福の歴史を研究し始めたのはほんの数年前の事であるから、まだ確かなことは言えない状態である。

<超ホモ・サピエンスの時代>
現在人間は知的設計をできるまでの段階に来ており、生物工学(遺伝子操作)、サイボーグ工学(体に機会を取り付ける)、非有機的生命工学(機械が生命となる)の3つがあげられる。 そしてこの分野が発展を遂げた時、既にホモサピエンスとは異なった人類となっているだろう。我々はこの流れに歯止をかけることはできず、唯一できるのは科学が進もうとしている方向に影響を与える事で、 ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は「私たちは何になりたいのか?」ではなく「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。 この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう。という形で締めくくる。

■感想
人類の歴史をこの様な切り口で見たのは私自身初めてあったので、目から鱗の連続で非常に刺激をうけた。 人類は、地域に根付いた原人やネアンデルタール人から進化したのではなく、アフリカで誕生しそこからネアンデルタール人を駆逐していった事は私も知っていたが、 虚構を語ることが出来たから人類が勝つことが出来たという事を知って衝撃を受けた。 ただ何故人類だけが虚構を語ることが出来たのかは解っていないというが、進化論でも人間の進化を説明できないと言われているので、宇宙人説も信じたくなるのは私だけだろうか。

私の疑問として残った事の一つに、西洋人と東洋人の思想の違いが何故生まれたのかを知りたかった。同じ人類でも思想の違いはかなりあると思うので、 その歴史を解き明かすのも立派なサピエンス全史に含まれるべき内容ではないかと思った。




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