シーナ・アイエンガー著 『選択の科学』の感想



読んだ本のこと

情報科学:00

ジャーナリズム:00

哲学:10

歴史:20

社会科学:30

自然科学:40

技術,工学:50

文学:90

公開日:2020/7/4    

■本の情報
<作者> シーナ・アイエンガー
<発行日> 2014年7月 (文春文庫)

以下黒字が本の要約、緑字が私の感想/コメント、リンク先は用語に対する私の解説です。

■印象に残った事
選択とは自分自身や自分の置かれた環境を自分の力で変える能力のこと。見方を変えると、将来と向き合うこと、先の世界を垣間見て目にしたものを基に判断を下すことである。

選択は動物にとって本能であり、選択できない状況では大きなストレスをもたらす。選択肢を増やしても何の利益も得られない状況でさえ、本能的に選択肢の幅を広げようとするし、たとえ不利益を招くと知っていても、状況を自分でコントロールしたいという欲求はそれ自体が強力な動機となり得る。 動物園の動物が短命なのは、自分で選択するという事を極端に制限させられているからである。

実際の状況のコントロール可否より、自分でコントロールできるという認識の方がはるかに大きな意味を持ち、人間社会においても、自己決定権をより多く持つ人間(例えば社長)の方が健康リスクが低く、幸福度が高い。 また、自分の選択が制限されうる宗教は幸福度に悪影響を与えていると考えていたが、逆に制約のない無神論者の方が、現実とのGAPに悲観する傾向があった。

<選択の考え方は地域や文化によって異なる>
筆者が京都に在住していた頃、レストランで砂糖入りの緑茶を頼んだら店員に頑なに断られ、砂糖は切らしているとまで言われたが、その後諦めてコーヒーを頼んだら砂糖がついてきたという話。 それは選択に対するものの考え方が文化にって異なることを端的に表す出来事だった。 そう解釈してくれたのは幸いだったが、これが日本人の普遍的な考え/態度であると思われていたら私としては心外だっただろう。京都の人の考え方は特にユニークなので。

個人主義的な選択、集団主義的な選択に分かれ、欧米が個人主義的な考えが強く、アジア、中南米、アフリカが集団主義的な考えが強い。また個人主義の国と物質的な豊かさ(GDP)には正の相関が見られ、集団主義と人口密度に正の相関がある(都市部を除く)。

結婚を例にとると、恋愛結婚は個人主義的、取り決め婚は集団主義的であるといえる。恋愛結婚の例にシンデレラの物語があり、結婚するまでの過程に焦点が当てられ、結婚した時点で物語は終わる。つまり結婚はゴールである。 一方取り決め婚の物語は、義務を果たす事で幸せは得られるとし、結婚後に育まれた愛の経過に焦点があてられる。結婚はスタートである。 現代の読者においては、重要な選択を他人に委ねる取り決め婚など考えられないかもしれないが、取り決め婚は過去5千年に渡り世界中で当たり前であった。 世界にはまだ取り決め婚が主流の国があるにもかかわらず読者は恋愛結婚者(個人主義者)だというのは、この本を読む事ができるのは裕福層であるとの考えからだと思われる。実際にそうなのか筆者の思い込みなのか気にはなる。FACTFULNESSの作者も同じような(本書を読んでいるのは裕福層であるという)言い方をしていた。
結婚当初は恋愛結婚者の方が幸福度が高かったが、期間が経つにつれて取り決め婚の方が幸福度は高まった。ただしその結果を見せられても個人主義者は取り決め婚をしようとは思わないし、また取り決め婚者も自分の意思を尊重できる恋愛結婚をしようとは思わない。

<個人主義社会と集団主義社会>
個人主義社会では、個人の意思の重要性を幼少期から教えられ「大きくなったら何になりたいか」を考える事ができるようになる。集団主義社会では、義務を果たすことの重要性を教えられ「親の求めや願いにどうやって応えることができるか」を問われる様になる。

課題に対するむき合い方も異なる。個人主義社会では他人が選択した条件で課題に取り組むと成績が低下し、集団主義社会では、幼少期は親が選択した条件下では成績が向上し、幼少期を過ぎても一体感や共通の意識を持ち、周りと同じ選択をすることで成績を上げる事ができる。 職場においては、個人主義社会では個人に多くの決定権や発言権を与えた方がパフォーマンスを発揮するのに対し、集団主義社会では役割に従い決定権を与えた方がうまくいく。自分の役割以上の決定権や発言権を与えると、逆に上司の管理する仕事を部下に押し付けていると思ってしまう。 また個人主義社会では、望みさえすれば自分の人生を自分で決め、どんなことも成し遂げられると教えられる。集団主義社会では、この世界を動かしているのは個人の行動だけではなく、社会的文脈や運命の定めでもある。結果に対する執着を捨て、正しい行動をとることに意識を向ける必要があると教えらえる(「yes we can」 と「しかたがない」の違い)。 個人主義社会ではより多くの選択肢を望み、集団主義社会では、選択肢は少ないが誰もが同じ様にそれを持てる状況を望む。(東ヨーロッパの例)

アジア人は集団主義的な性格が強く、欧米人は個人主義的な性格が強いとあるが、それは後天的なものなのか、先天的なものなのか説明が欲しかった。性格の形成は環境が支配的なので後天的であると思われるが、長い間その様な環境を続けていたら先天的にその様な遺伝子が備わっているかもしれないと思ったので。


<選択の動機と結果>
以下の説明は、個人主義社会の事か集団主義社会の事か説明がなかったが、集団主義社会に属している私としてもそう思うので、どちらにも言える事なのだろう。

多くの人は、人と同じと見られることに自尊心を傷つけられ、人と同じ選択をすることは怠惰であり向上心に欠けるとみなされる。また極端に特異であるとみなされることも自尊心を急低下させる。つまり、その他大勢と区別されるほどには特殊でいて、定義可能な集団に属している時に心地よく感じる。

店で食べ物を注文する時に、個別に紙に書いて注文する時は自分が頼みたいものを素直に注文するが、順番に注文を言っていく方法では注文が重なることが減った。 それは自分が頼みたいものを先に言われた時に同じものを頼むのが嫌だからなであるが、そうして頼んだ注文に対しては満足度が低下する。個別に書くケースでは、結果的に同じものを注文した場合でも満足度は高い。

私たちは自分の思い描く自己像と他人が思い描く自己像が一致することをとても重要視する。しかし多くの場合はそれは一致しない。何故なら相手は自分の表面的な事しか見て判断しないからだ。

自制心が強い人は喫煙率が低く、社会経済的地位が高く、修学年数が高い傾向にある。これだけ見ると自制心が強い方が望ましいと思われるが、自制心が強い場合、やりたかった事を我慢してきた経験などから、人生に後悔を持つ人も多い様である。

通勤は、平均的な人の一日のうちで群を抜いて最も不快な時間であり、通勤時間が一日あたり20分長くなることが幸福度に与えるダメージは失職が与えるダメージの五分の一にもなる。コロナウイルスの影響で、私の職場でもテレワークが進み通勤時間が減り、確かにストレスは大幅に減ったと感じる。これはテレワークによる大きなメリットの一つであろう。

<豊富な選択肢は必ずしも私たちの利益にはならない>
これを証明するジャムの実験は作者の有名な実験である。選択肢が多いと満足度や幸福度は逆に低下する。 人間の情報処理能力の限界は7±2つで、これはマジカルナンバーと呼ばれている。7を使った言葉には世界7不思議、7つの大罪などがある。日本ではたくさんあるという意味合いで8を使う。例えば、嘘八百、八百万、ヤマタノオロチなど。なおマジカルナンバーは7±2ではなく、4±1である(情報処理能力の限界)という説もある。 また選択肢が豊富なだけではなく、一日に選択できる回数にも限度があり、選択回数が多い程どんどん判断が鈍っていくことが解っている。例えばスティーブジョブスは、なるべく選択回数を減らすために、食べるものや着る服は予め決めており、そういう些細な事で選択の力を使わない様に心掛けていた。

商品の売り上げの裾野の部分「ロングテール」も商品の種類(他とはっきり区別がつくようなもの)によっては、豊富な選択肢が良いとされる証拠になる。ただし、日用品など他との区別が付きづらいものは選択肢が多い程ノイズにしかならない。 一方、豊富な選択肢が物質的豊かさを実感できる為、選択肢が豊富であるという事自体を好む人もいる。

多数の選択肢から適切なものを選択できるようになるためには、その分野の専門知識を身につけること、もしくは専門家の意見を聞く、集団知を活用する、解りやすく分類すること等がある。

<選択の代償>
医療において、医者が患者やその親族の同意なく治療法を決めるのが当たり前だった時代があったが、現在はインフォームドチョイスといい、自分で治療法を選択できるようになった。 そのことで患者やその親族の納得感は向上したが、命に係わる選択(延命するか否か)を迫られたときに、強いストレスを抱え選択後も強い苦悩にさいなまれるようになった。 「何故こんな選択を私たちにさせたのだろう」と。選択できない場合の不満と、選択させられた時のストレスのジレンマを和らげる方法として、フランスのやり方が挙げられる。 治療中止の決定を親族が下さなければならないアメリカに対し、フランスでは親がはっきりと異議を申し立てない限り、医師が決定を下す。
なおこの選択がこんなにも辛い理由は、値段がつけられないほどの貴重なものを、比較可能なもので値踏みせざるを得ないからである。

■感想
私にとって最も印象的だったのは次の3つである。 その他は割と知られる心理学や行動経済学を、選択の視点で綺麗に関連付けて説明されており、読みやすいと感じた。全く心理学や行動経済学を知らない人にとっては、特に読み応えのあるものだと思う。

 ・ 選択は本能的なもので、人間以外の動物にとっても「とにかく選択せずにはいられない」
 ・ 人種(地域)によって選択する時のパターンがある
 ・ 豊富な選択肢は必ずしも利益にならない。

個人主義社会の代名詞の国であるアメリカについて私が最も不思議に思うのは、アメリカ人はとにかく制限されるのが嫌いで、コロナ禍を見てもみんなで頑張って感染拡大を防止しようという気がさらさら無いのがよく解る。 しかしそんなに制限されるのが嫌なら、なぜキリスト教信者は聖書に書いてある戒律に従い、日曜礼拝などをしっかり従うのだろう。日本人からしたら、それこそ自由にさせてくれと思う人が多いのではないかと思う。 キリスト教と個人主義者は別の人たちで構成されているからなのか、あるいは宗教は選択を超越した何かなのか。アメリカ人にとっては当たり前の何かがあるのだろうが、日本人には解らないのでそこは詳しく知りたいと思った。

また、個人主義と集団主義どちらが優れているかは決める事はできないと言っているが、集団主義社会に属している私としては、集団主義社会の方が優れていると思ってしまう。何故なら、個人主義は貧富の差が激しくなりすぎる一方、 物質的豊かさの追及は必ずしも幸福度に繋がらないと思うからである (だったら貧乏でも良いのでは、という事ではない。物質的豊かさが至上を前提とする社会が良くないのではと思っている)。運命は自分で切り開くものだと思っていても、それが叶わなかった時に大きな苦痛となるので、自分ではどうしようもないこともあると思っていた方が、気は楽になると思うからである。

本書、「選択の科学」の原題は「選択のアート」であるが、なぜ科学と訳したのだろうかは疑問。筆者はこうも言っている。「科学の力を借りて巧みに選択を行うこともできるが、それでも選択が本質的に芸術であることに変わりない」と。 日本人にとっては科学と言った方が興味をそそられるとは思うが、原題に沿ってアート(芸術)と言った方が作者の意図が伝わるのではないかと思った。




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情報科学:00

ジャーナリズム:00

哲学:10

歴史:20

社会科学:30

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技術,工学:50

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