■本、著者の情報
<作者>不詳, 池田智久 訳
<発行日>2019年1月
<出版社>(株) 講談社
■老子とは
老子は道教の創始者とされる人物です。ですがその実在性については議論が分かれており、架空の人物という説もあります。
司馬遷の「史記」には、老子のもとに孔子(BC552-479)が訪れ、「礼」について教わったとありますので、実在するならば孔子と同じ時代の人だと考えられます。
書物の「老子」は、老子の言葉を集めたもので、81章からなります。
■道とは
道とは、形を越えた形、物を越えた姿(无状の状、无物の象)として、人間が名づけることもできない姿である(第15章)。
物が混沌とした渦の様に天地よりも先に生じていた。それは天地を生む巨大な母のようである。私はこの原初の混沌たる物を正しく名づけることは出来ないので、「道」と呼ぶ(第25章)。
目を凝らして視ようとしても視ることができず、耳をすまして聴こうとしても聴くことができないけれど、それを用いればその働きは尽きず、
聖人が根源の道をしっかりと握って離さなければ、天下のあらゆる万物は一斉に動き始め、やがて天下には安静、平和がもたらされる。(第35章)
道の捉え方は、耳目鼻口などといった欲望の穴を塞ぎ、知覚の門を閉ざすことである。(第52章)
■無為自然とは
無為自然とは、道の働きを体現し、無理な行動や人為的な努力を避け自然の流れに身を任せることで、真の調和が得られるとされる考え方のことです。
あくまでも、「何もしない」のではなく「無理なことをしない」という考えです。
ものごとを人為的になそうとする者はそれを壊し、ものごとを捕まえようとする者はそれを取り逃がしてしまう。理想的な人物たる聖人はものごとを人為的になそうとしないし捕まえようとしない。
それゆえ壊すことも取り逃がすこともないのである。(第64章)
■足るを知るとは
足るを知るとは、満足を知るという事です。ひどく名声、財貨に執着すれば必ず大きく消耗することになる。だから、それらの欲望充足に満足することを知る者は、
辱めを受けることがなく適当な所で抑止することを忘れない者は、危険な目に合う事は無い(第44章)
■儒教への批判
老子は、儒教が強調する、徳、仁、義、礼といった人為的な要素を批判する。例えば、「道路に唾を吐くな」という法律があるとすれば、それは道路に唾を吐く人がいるからであり、
同様に礼を重要視するという事は、礼が足りていな人がいるという事になり、礼を押し付けること自体が不自然であると老子は考える。
最上の徳は人為を行わず、また人為を行うねらいも持たない。更に、最上の仁は人為は行うけれども、人為を行うねらいは持たない。ところが最上の義となると人為を行い、また人為を行うねらいも持っている。
下って、最上の礼までくると人為を行うだけでなく、その礼に応えない者に対しては、腕まくりして突っかかっていく。
こういう訳で、根源の道が廃れたためにそれに代わって徳が現われ、徳が廃れたためにそれに代わって仁が現われ、仁が廃れたために代わって義が説かれ、義が廃れたために代わって礼が説かれるようになったのだ。(第38章)
■有名な言葉, 心に残った言葉
其の光を和らげ、其の塵(ちり)を同ず (第4章)
和光同塵の由来。自分の光り輝く才知を隠し、世の塵にまみれること。
上善水の如し (第8章)
最上の善は、水のようなものである。万物に恵みをもたらすだけであって、勝ちを求めて他と争おうとせず、大衆のいやがる低い地位に安住している。
だからこそ道に近い存在である。
大上は下之有るを知る (第17章)
最善の統治者は、人々にその存在を意識される事は無い。(君臨すれども統治せずの考え)
三宝 (第67章)
一つは慈しみ、二つはむだを省くこと、三つは天下の先頭に立とうとしないことである。慈しみの心があればこそ、かえって勇敢でありうる。無駄を省けばこそかえって広い領域を統治しうる。
天下の先頭に立とうとしなければこそ、かえって事業を成し遂げる政治の首長となりうるのだ。
善く士たる者は武ならず (第68章)
ひとかどの人物ともなれば武勇を誇らず、優れた軍人ともなれば怒りに任せず、巧みに敵を打ち負かす者は相手に突っかかっていかず、上に立ってうまく人々を使う者は相手にへりくだる。
知らざることを知るは、尚(上)なり。知らざる事を知らざるは、病なり。 (第71章)
天網恢恢、疎にして漏らさず (第73章)
天の網は非常に広く、目が粗いように見えるが、決して何も逃さないという意味。簡単に言うと「お天道様が見ている」で、最終的には必ず公平に報いがもたらされるという事です。
小邦寡民、十百人の器をして用うることなからしめ (第80章)
全天下を構成する行政の単位には、小規模の国家を設置してその人民の人口は少数としたい。
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