■本、著者の情報
<作者>アリストテレス, 渡辺 邦夫/立花 幸司 訳
<原題>Ēthika Nikomacheia
<発行日>2015年12月 (株) 光文社
■徳とは
古代ギリシャにおいて徳(アレテー)とは、その物が持つ固有の優れた性質を意味するものであるが、アリストテレスは「人柄のアレテー(分別による欲望や感情に関わるもの)」と、「知的なアレテー(個人における分別そのもの)」に分類されると考えた。
■善とは
善とは「それ以外のものがそのもののために為されているもの」のことである。
医術においては健康があり、戦争術においては勝利があり、建築術においては家があり、それぞれの事柄にそれぞれ善があるが、あらゆる行為と選択における「目的」がそのような善である。
数ある目的、例えば富や笛や一般に道具となる様々な目的を我々が選ぶのは、それとは別の何かのためなので、それで完結した目的となる訳ではない。
その中で最高善は完結した目的であり、とりわけ幸福がそうしたものであると思われる。何故なら我々が幸福を選ぶのは、つねに幸福それ自体のためであって、決して他の何かのためではないからである。
これに対して名誉や快楽や知性やあらゆる徳はこれらを通じて幸福になるだろうと考えているからである。
また人間にとっての善は、徳に基づく魂の活動となり、それが最も本来的で最高によいものである。
■幸福とは
幸福とは為しうるすべての善いもののうちで最上位のもので、「よい人生を送ること」や「立派にやっていくこと」と同じもの。しかし人によって何があれば幸せになるかの考えが異なる。
なお上記で、善は「徳に基づく魂の活動」と述べているが、幸福も「徳に基づく魂の活動」とされている。
一般大衆は、善や幸福は「快楽」のことだと考えているが、これでは奴隷や家畜的な生き方であるため、好ましいものではない。
また立派で行動力のある人は、善や幸福は「名誉」のことだと考えている。しかし名誉は与える側の人々に依っているし、名誉を追求するのは名誉を通じて自分が善い人間である、徳を持っていると確認したいためである。
従って、名誉より徳の方が幸せにつながると考えられるかもしれないが、これも完璧ではない。何故なら徳を持っていたとしても、不運や苦境に陥る事があるからである。つまり「享楽的な生活」「政治的な生活」は幸福とは呼べず、「観想的な生活(知恵の徳に生きる生活)」が幸福と呼べる。
観想的な生活が「完全な幸福」とする理由は、観想は最善であり、最も連続的に行う事ができ、その生活のために必要なものが最も少なく、実践と違って観想自体が目的であり、全ての実践は忙しいもので余暇のために行うものであるのに対し、観想こそ余暇に行うものだからである。
また、いかなるものが神々の行為でふさわしいかを考えた時に、正義や勇気ある行為や節制の行為はふさわしくなく、観想的な行為こそが神々の行為にふさわしいのであり、その神々の行為に近づくことこそが幸福である。
■プラトンの善のイデア論に対する批判
アリストテレスは善のイデア論を次のように批判する。
「善い」は数多くの意味で使われる(知性が善い、関係が善いなど)し、善についての様々な学問があることから、「善」が全てのカテゴリーに共通する普遍的な何か一つのものであるという事はあり得ない。
また例えば、人間そのものを定義するにしても、現実の人間を定義するにしても、人間の定義は同一になる以上、人間というイデアと現実の人間に異なるところは何もないので、イデアを定義する必要がない。
更に、善のイデアを認識する事が善の獲得に向けての助けになる。という反論があるかもしれないが、個別具体的な事象を考えなければ結局自分にとって大して有益ではないという点においても、
イデアを定義する必要がない。
■中庸
人柄の徳とは、選択を生む自発的な性向であり、それは我々にとっての中間性を示す性向である。そしてここでの中間性とは、その人の分別(ロゴス)によって定まる。
■「抑制のなさ」に関する哲学的難問
節制と放埓とは、触覚や味覚を通じた快楽と苦痛、及びそうした快楽への欲望と苦痛の忌避にかかわるものである。放埓な人とは、他のもの故ではなくそれ自体の故にその快楽を追求し、快楽を過剰に求めることに対して後悔しない人である。
「抑制のない人」とは、自らの行為を劣悪だと知りながら感情によってそれを為してしまう人のことである。「抑制のある人」とは、自らの欲望が劣悪だと知っていて、分別のおかげで従うことの無い人のことである。
一方で節制とは、劣悪な欲望に打ち勝つのではなく、もともとその欲望を持っていない人のことである。
その上で「抑制のない人」は、なぜ自らの行為を劣悪だと知りながら感情によってそれを為してしまうのでしょうか。ソクラテスによると、それは「知識が無いこと」によって生じるものであるとします。
しかし、知識より強力なものは何もないという点ではソクラテスに同意する一方で、より善いと信じられた事柄に反して行為する人などいないという点では同意しないという人もいる。
そこで彼らは、抑制のない人は知識ではなく脆弱な信念しか持っていないから快楽に負けると主張する。
アリストテレスは「知識を持っているが使用していない場合がある」とする方が自然である考えます。使用していない場合というのは欲望が介在する時であって、欲望によって知覚(善悪に関わる付帯的知覚)が変化し、
現実の行為を生む推論が別のものに変わってしまい、その結果、本来よくないと理解されていた筈の思考が弱体化され、抑制のない行為を進んで行ってしまうのだといいます。
■その他メモ
・人が最もその判断を見誤るのは快楽に関してである。自らの激情と戦うのは困難であるが、快楽と戦う事はより一層困難である。
・意に反したものとは、強制によるものと無知によるものである。自発的なものとは、行為を成り立たせる個別の事柄を知っているその人自身の内に行為の始まりがあるものである。
・選択とは自発的なもので、あらかじめ思案されたものである。
・恐れとは悪いものへの予期である。勇気ある人は美しい死を恐れない人のことである。そして何か苦しいものから逃れようとして死ぬのは勇気ではなく臆病である。
・魂の快楽(例えば勉強好き)と身体の快楽は別ものであり、節制や放埓は身体の快楽に関わるものである。
・志の高い人とは、自分が大きなことに値するものであるとみなし、しかも実際にそうである人である。
・不正なことを自発的に行うと「不正行為」となる。意図せず不正をしてしまった場合、「不正行為」と定義しない。
・事実、これだけは神でさえも阻まれている。すでに為されたことを為されなかったことにすること(アガトン)
・技術とは、真なる分別を備えた制作に関わる性向である。
・思慮深さとは、人間にとっての善悪が関わる行為の領域における、分別を備えた真なる性向である。思慮深さには忘却はあり得ない。
・身体的快楽が「快楽」の名を独占してしまっているが、快楽には身体的快楽だけではなく、精神的快楽も存在する。
■本の構成
原著は10巻からなります。
第1巻:幸福とは何か - はじまりの考察
第1章 好意の目的の系列から善さについて考える
第2章 最高の目的としての幸福は政治学と倫理学によって研究される
第3章 倫理学講義を受講する際に心掛けておくべきポイント
第4章 幸福は倫理学の目的であるが、人々の激しい論争の的である
第5章 代表的な三種類の生き方の検討
第6章 プラトンの善のイデアに対する批判
第7章 幸福の定義「徳に基づく魂の活動」
第8章 人々の通念から幸福の定義を正当化する試み
第9章 幸福はどのように得られるものか?
第10章 人を「幸福」と呼ぶことは死ぬまで許されないのだろうか?
第11章 死んだ人間は幸不幸に関する変化をこうむるか?
第12章 幸福な人は尊敬され、徳は賞賛される
第13章 幸福論から徳論へ ー 徳の二大区分
第2巻:人柄の徳(アレテー)の総論
第1章 人柄の徳は、人が育つ過程における行為習慣の問題である
第2章 倫理学は自分が善き人になるためのものである
第3章 徳は快楽と苦痛に密接なかかわりをもつ
第4章 徳のためには人は、行為の習慣により特有の性向になっていなければならない
第5章 徳も悪徳も魂のなんらかの性向として定義できる
第6章 人柄の徳は、感情と行為においてちょうどしかるべき中間的な性向である
第7章 「中間の性向」を、さまざまな人柄の徳を例にして説明する
第8章 中間の性向と二つの極の性向の反対対立関係がもつニュアンスの説明
第9章 人柄の徳の獲得の難しさ、および徳に近づく方法の紹介
第3巻:徳の観点からみた行為の構造、および勇気と節制の徳
第1章 徳を考えるために自発的な行為を考える
第2章 ただ単に自発的なだけではない、選択に基づいた行為
第3章 選択に基づいた行為を導く思案
第4章 人は善いものを願望するのか、それとも善くみえるものを願望するのか?
第5章 徳も悪徳も自発的なものである
第6章 自信の大きさと恐れの中間としての勇気
第7章 自信を持ちすぎる向こう見ずな人、恐れすぎる臆病な人、中間性を保った勇気ある人
第8章 本来の勇気とは別に、「勇気」と呼ばれている五つのもの
第9章 美しいもののために耐える勇気
第10章 節制と放埓ー食欲と性欲にかかわる徳と悪徳
第11章 放埓な人は欲望ゆえに苦しむが、節制の人は苦しまない
第12章 放埓さは自発的なものである
第4巻:いくつかの人柄の徳の説明
第1章 お金や物品のからむ人間関係における中間性としての気前良さ
第2章 大事業への出費を惜しまない中間性としての物惜しみのなさ
第3章 真に卓越した人間に特有の徳としての志の高さ
第4章 一般に名誉にかかわる、無名のもう一つの徳
第5章 怒りにかかわる中間性としての温和さ
第6章 社交において発揮される無名の徳
第7章 自分より高い価値や低い価値のふりをせず、真実を示す無名の徳
第8章 言葉の娯楽における中間性としての機知
第9章 倫理における「羞恥心」の問題
第5巻:正義について
第1章 対人関係において発揮される徳を総称して「正義の徳」ということがあること
第2章 対人関係における徳としての全体的正義と、ほかの徳と区別される部分的正義
第3章 部分的正義の第一の種類:「配分的正義」
第4章 各人を等しく一人として考える第二の種類:「矯正的正義」
第5章 正義の議論における「応報」という考え方について
第6章 限定抜きの正しさと、国における正しさ
第7章 正しさにおける、自然本性的なものと取り決めによる法的なもの
第8章 加害の三種:過失と、不正行為と、不正の悪徳による不正行為
第9章 正義をめぐるいくつかの哲学的難問「自発的に不正をされることがあるか?」「自分自身に不正をなすことは可能か?」などについて
第10章 法の文言どおりにいかない事態に対応する、高潔な人による「衡平」の実現の重要性について
第11章 「自分に対する不正」は、文字どおりの意味においては不可能であることの最終的議論
第6巻:知的な徳
第1章 学問的に知る部分と推理して知る部分
第2章 理論的思考と実践的思考
第3章 学問的知識について
第4章 技術について-技術と制作
第5章 思慮深さについて-思慮深さと行為
第6章 知性について
第7章 知恵について-思慮深さとの関係から
第8章 思慮深さの分類と、知的な徳としての思慮深さの特徴
第9章 考え深さについて
第10章 物わかりの良さについて
第11章 察しのよさと思いやりから見た思慮深さの特徴
第12章 知恵と思慮深さをめぐるいくつかの難問-思慮深さと知恵が必要な理由
第13章 知恵と思慮深さをめぐるいくつかの難問-思慮深さと人柄の徳の関係の再検討
第7巻:欲望の問題-抑制のなさと快楽をめぐって
第1章 「抑制のなさ」に関して語られる通念
第2章 「抑制のなさ」に関する哲学的難問
第3章 「抑制のなさ」の解明-解明のための四つの段階
第4章 限定抜きの「抑制のなさ」と、限定付きの「抑制のなさ」
第5章 獣的な性向と病的な性向
第6章 激情の醜さと欲望の醜さ
第7章 さまざまな抑制のなさ
第8章 さまざまな抑制のなさ
第9章 抑制のある人に見えてしまう人々
第10章 抑制のない人の癒しやすさ
第11章 快楽主義に反対する代表的論拠
第12章 既存の論拠からは反快楽主義を導くことができないこと
第13章 高尚な快楽は最高善とみなしうること
第14章 優越性に基づく愛(フィリア)を維持するための助言
第8巻:愛(フィリア)について
第1章 愛の必要性と価値に関する前書き
第2章 愛の三種類の根拠と、愛の成立条件
第3章 三種類の愛があり、善に基づく愛が中心であること
第4章 「快楽に基づく愛」と「有用性に基づく愛」は愛なのか?
第5章 善に基づく友人は「ともに生きる」間柄である
第6章 快楽の友と有用さの友は、徳の友と似ている点で「友」である
第7章 優越性に基づく愛
第8章 愛は愛することのうちにあること
第9章 愛と正義は、人々の共同性に応じて変わっていくこと
第10章 国家体制の分類、および家庭内の共同性の類比的説明
第11章 国家体制の種類に基づく、愛の諸形態に関する説明
第12章 家族の愛の分析
第13章 愛につきまとう不平は、なぜ生まれてくるのか?
第14章 優越性に基づく愛を維持するための助言
第9巻:愛(フィリア)について
第1章 愛の不平と友好的取引にまつわる不平について
第2章 恩恵に対して、どのようにお返しすべきか?
第3章 愛の解消は、いかなる条件のもとで起こるか?
第4章 愛の関係と、高潔な人の自分自身のとの関係
第5章 愛の始まりとしての好意
第6章 政治的な愛としての協和
第7章 なぜ親切にした人は親切にした相手を、強くいつまでも愛するのか?
第8章 二つの自己愛-真の自己愛は自分の知性への愛であること
第9章 幸福な人は、友人を必要とするか?
第10章 人はどのくらい多くの友人を持つのが良いか?
第11章 幸運に際して友人が必要か、不運に際して友人が必要か?
第12章 共に生きることは、意味のある活動を共にすることである
第10巻:幸福論の結論
第1章 快楽論序説
第2章 エウドクソスの快楽主義
第3章 快楽に関する従来の様々な主張の総括
第4章 アリストテレス自身の快楽論(一)-快楽により活動は完成する
第5章 アリストテレス自身の快楽論(二)-活動の種類と人柄の優劣
第6章 幸福論再論(一)-幸福は真面目な活動のうちにあること
第7章 幸福論再論(二)-観想の生活が完全に幸福な生活であること
第8章 幸福論再論(三)-実践的生活は二次的な幸福を与えること
第9章 結び-人間に関する哲学は倫理学から政治学へ向かうこと
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