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■本、著者の情報
<作者>プラトン, 藤沢 令夫 訳
<原題>Republic
<発行日>1979年6月 (株) 岩波書店
■時代・場面設定
BC5世紀古代ギリシャ。ソクラテスとグラウコンは、アテナイの外港ペイライエウスにてトラキア人によるお祭りを見物した後、ポレマルコスとアデイマントスらに呼び止められ、ポレマルコスの家へ向かう。
<登場人物>
・ソクラテス:この時39歳-48歳頃
・ケパロス:シチリア島シラクサ出身の老人。ケパロス、弁論作家のリュシアス、エウテュデモスの父
・ポレマルコス:ケパロスの長男。
・トラシュマコス:カルケドン出身のソフィスト
・クレイトポン:アテナイの政治家
・アデイマントス:アリストンの長男。プラトンの兄
・グラウコン:アリストンの次男。プラトンの兄
■本の構成
原著は10巻からなり、大別して以下の5部に分かれます。
Ⅰ. 第1巻:正義について幾つかの検討
・ ケパロスとの老年についての対話, 正義とは何かという問題へ
・ ポレマルコスとの対話, 詩人シモニデスの見解の検討
・ トラシュマコスとの対話, 正義とは強者の利益となるか, 不正は正義より有利になるか
Ⅱ. 第2~4巻:国家の考察
・ グラウコン、アデイマントスによる問題の再提起
・ 国家の考察 - 「必要最小限な国家」と「贅沢国家」, 国の守護者の持つべき自然的要素
・ 国の守護者の教育 - 音楽, 文芸, 体育, 医術
・ 国の守護者の条件 - 選抜条件, 生活条件, 任務条件
・ 国家の知恵, 勇気, 節制, 正義の定義
・ 「魂の機能の三区分」:理知, 気概, 欲望
・ 個人の知恵, 勇気, 節制, 正義の定義, 国家と個人の悪徳の問題
Ⅲ. 第5~7巻:理想国家のあり方と条件, 哲学の役割
・ 三つのパラドクス (大浪)
- 男女における同一の職務と教育
- 妻女と子どもの共有, 戦争
- 哲学者の国家統治
・ 哲学者の定義と哲学のための弁明
- 哲学者とは,イデア論に基づく規定
- 哲学者の自然的素質
- 哲学無用論の由来, にせ哲学者
- 哲人統治者の実現可能性
・ 哲人統治者のための教育
- 学ぶべき最大のもの:「善」
- 善のイデア:太陽の比喩, 線分の比喩, 洞窟の比喩
- 「魂の向け変え」「真実在への上昇」のための教育
- 数学:数, 計算, 幾何学, 立体幾何学, 天文学, 音階論
- 哲学的問答法 (ディアレクティケー)
- 学習, 研究の年齢と具体的プログラム
Ⅳ. 第8~9巻:不完全国家の考察, 正しい生と不正な生の比較
・ 理想国家(優秀者支配制)から名誉支配制への変動, 名誉支配制国家と名誉支配的人間
・ 寡頭制国家と寡頭制的人間
・ 民主制国家と民主制的人間
・ 僭主独裁制国家と僭主独裁制的人間
・ 幸福という観点から見た正しい生と不正な生の比較
- 僭主独裁者の生は最も不幸、優秀者支配制的人間(哲学者)は最も幸福
- 国制と個人の在り方との対応に基づく証明
- 魂の機能の三区分に基づく証明
- 真実の快楽と虚偽の快楽の別に基づく証明
- 不正が利益になる説は完全に誤りであり、正義こそが人間にとって真の利益
Ⅴ. 第10巻:詩(創作)への告発, 正義の報酬
・ 詩歌, 演劇の本質
- 真似, 描写としての詩作:真実(イデア)からの遠ざかり, 知識の欠如
- 詩(創作)の感情的効果:魂の劣った部分への働きかけ、性格への有害な影響
・ 正義の報酬
- 魂の不死と本来の姿
- 現世における正義の報酬
- 死後における正義の報酬, エルの物語, 大団円
■本の主題
<本当に正義は不正にまさるのか>
ソクラテスは、正義とは、幸せになろうとする者が、それをそれ自体のためにも そこから生じる結果のゆえにも、愛さなければならないようなものであると考える。
一方この時代は、正義より不正の方が得をし、不正を働いているのにもかかわらず それがばれることなく正しい人だと思われている人間が、最も良い生活を送る事ができると考えられている。
アデイマントスらは、正義は不正にまさる事を証明するためには、神々や人間に気づかれないにかかわらず(つまり正義を行った結果、得ることのできる報酬(評判や名声など)にかかわらず)、
それ自体としてそれ自身の力だけで、その所有者にどのような働きを及ぼすがゆえに、一方は善であり他方は悪であるかを示す必要がある。と述べる。
以上が本の主題であるが、不正を擁護する考えについての補足を以下に挙げる。
「正しいこと」とは、強いものの利益になることにほかならず、これに反して「不正なこと」とは自分自身の利益になり得になるものである
正義とは辛いものの一種であると思われている。
つまり、報酬や世間の評判に基づく名声のためにこそ行わなければならないが、それ自体としては、苦しいから避けなければらないようなものである。
正義とは不正を働きながら罰を受けないという最善のことと、不正な仕打ちを受けながら仕返しをする能力がないという最悪のことと中間的な妥協である。
仮に正しい人が何でも望むがままのことが出来たとすると、不正な人と同じような行動をとる。それを法の力で無理やり平等にさせているに過ぎない。
正義そのものを讃えている訳ではなく、正義がもたらす良い評判(神々からの評判も勘定に入れて)を讃えている。
邪な人間であっても金や権力を持っていれば、公の場でも個人的な立場でも何はばかるところ無く、祝福され尊敬される。
他方、正しくても無力で貧乏な人間は善人であることは認められながらも、見下し軽蔑される。
神々でさえも良き人間に不運と不幸な生活を、悪しき人々にその反対の運命を与えることがしばしばある。
また、不正から得た利益をもって、犯した罪や過ちについては供物と祈りを捧げることによって神々を口説けば無罪放免にしてもらえる。
不正をとがめ正義を讃えるにあたって、評判のことや名誉のことから得る報酬以外の説明はなく、
正義と不正のそれぞれが、それ自体としてそれ自身の力でどのような働きをなすかという事はかつて一度も詳しく語られた事は無かった。
もし正義こそが最大の善ならば、お互いに不正を働くことを警戒し合わなくても、誰よりも自分自身が最も良き警戒者となっている筈である。
<正義と不正にまさる根拠>
正義が善いことを証明するにあたり、大きな文字を見てから小さな文字を見る方が見えやすいのと同じように、先ずは対象が大きな国家の正義を検討し、それを個人の正義に当てはめるという手法をソクラテスは提案する。
そして上項「本の構成」に従って国家について考察をしていく。その結果、正義が不正にまさる根拠は以下であると、私は解釈しました。
・ 国においては、不正が行われると国の統治者や守護者が育たなくなり、国家が成り立たなくなるため
・ 個人においては、不正を働きながら人に気付かれず罰を受けないと、最も崇高であるべき魂が一層悪い状態になり、その価値を失うため。
■国家について
<理想的な国家の統治法>
最高の統治を達成しようとする国家においては、哲学する者が政治権力の座につくか、あるいは権力を有する人々が哲学を学ばなければならず、
妻女と子どもは共有され、すべての共育は共通に課せられること、同様にして男女ともに、戦争においても平和のうちにおいても共通の仕事を行うべきである。これを優秀者支配性と呼んでいる。
また国の守護者は、一般に人々が所有している様なものを何一つ所有してはならず、守護の任務に対する報酬として仕事に必要なだけの糧を一年分受け取り、自分自身と他の国民の面倒を見ることに専念しなければならない。
<不完全な国家>
上記の理想的な国家である優秀者支配性の他には、これに劣る4つの国制があるが、その中でも優れているものの順に「名誉支配制」「寡頭制」「民主制」「僭主独裁制」がある。そして個人が集まったものが国となるのだから、個人の在り方と国制の在り方は同一となる。
「名誉支配制」とは、クレタやスパルタ風の国制のことで、優秀者支配制と寡頭制の中間的な国制に位置づけされる。周期のめぐりあわせで産むべきではない子供が産まれると、国民のレベルが低下していく。
その結果、金銭に対する欲望が強く、気概の性格が支配的であることにより勝利と名誉を愛し求める国家となる。
「寡頭制」とは、財産の評価に基づく国制で、金持ちが支配し貧乏人は支配される国制のこと。富を善とする。名誉支配制からの移り変わりとして、金持ちは自分自身に都合の良い様に法を曲げる。そのうち彼らは勝利を求め名誉を愛する人間であることをやめて、
金もうけを求め金銭を愛する人間となる。
「民主制」とは、市民全員に平等に国を支配させる国制のことで、たいていの場合その国における役職はくじで決められる。自由を善とする。寡頭制から民主制への変化は、貧乏人の革命によって金持ちが追い出されることによって成立する。
その国は自由で一見素晴らしいように見えるが、決して優れた人物は生まれず、不必要な欲望におぼれた人間になる。政治家もただ大衆に好意を持たれた人物が選ばれる。
「僭主独裁制」とは、最も勇敢な人が独裁的な支配を行う国制のこと。民主制から僭主独裁制への変化は、自由が行き過ぎて、ほんの少しでも抑圧が課せられると腹を立てて我慢ができなくなり、最後には法律さえも顧みなくなった結果、
最も勇敢な(力の強い)人間が支配する、僭主独裁制が成立する。独裁者は初めのうちは全ての人に情深く穏やかな人間であるという様子を見せるが、絶えず何らかの戦争を引き起こし、民衆を、指導者を必要とする状態におく。
その目的は、人々が税金を払って貧しくなり、その日その日の仕事に追われるようになる結果、謀反を企むことが出来にくくするようにするためである。
■理知, 気概, 欲望, 正義, 善
国家と魂(個人)における理知、気概、欲望、正義は以下の様な関係になっています。
また「善」とは知識と真理の原因(根拠)となるもので、様々なイデアの中でも学ぶべき最大のものであるとしました。
知識と真理はどちらもかくも美しいものではあるけれども、善はこの両者とは別のものであり、これらよりもさらに美しいものと考えてこそ、君の考えは正しいことになるだろう。
これに対して知識と真理とは、ちょうど先の場合に、光と視覚を太陽に似たものとみなすのは正しいけれども、それがそのまま太陽であると考えるのは正しくなかったのと同じように、
この場合も、この両者を善に似たものとみなすのは正しいけれども、しかし両者のどちらかでも、これをそのまま善に他ならないと考えるのは正しくないのであって、善のありかたはもっと貴重なものとしなければならないのだ
■洞窟の比喩
教育と無教育(知識と無知)に関して、我々人間の本性は、洞窟の暗闇の中で壁に映る影絵を見て、それを本物の姿と思い込んでいる様なものである。
洞窟から抜け出して、明るい太陽の光の中で真の姿を見る必要がある。
■その他印象に残ったこと
・ケパロスは、老年になり愛欲が無くなったことに対して、作家ソポクレスが言及したことを引用している。
よしたまえ、君。私はそれから逃れ去ったことを、無上の喜びとしているのだ。たとえてみれば、狂暴で猛々しいひとりの暴君の手から、やっと逃げおおせたようなもの
・優れた人たちが支配者の地位につくことを承知するのは、金のためでも名誉のためでもない。もし優れた人が支配する事を拒んだ場合、自分より劣った人間に支配されるという罰が怖いからこそ、自分が支配者になる。
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