マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう』の感想



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公開日:2021/6/27    

■本の情報 
<作者> マイケル・サンデル (鬼澤 忍 訳)
<発行日> 2010年5月 (早川書房)

■概要 ネタバレを含みます。緑文字は私の意見、補足になります。
「正しい行い」とは何か。功利主義リバタリアニズム、リベラリズムなどの考えを説明した上で、サンデル氏の主義であるコミュニタリアニズムの考えが述べられています。 ここでの説明は、功利主義やリバタリアニズムなどの考えに関しては説明を省き、コミュニタリアニズムの考えを中心に説明します。

<正義の判断基準>
ある社会が公正かどうかを問うことは、我々が大切にするもの、財産や義務や権利、権力や機械、職務や栄誉などがどう分配されるかを問うことである。 それらを分配するための三つの価値観が、幸福自由美徳である。 なお幸福の最大化は功利主義、自由の尊重はリバタリアニズムやリベラリズム、美徳の涵養はコミュニタリアニズムが重要視する価値観となります。 なお平等という観点ここに含まれていませんが、それは何を平等と置くかによって上記のいずれかに位置づけされるだと解釈しました。(例えば、財産の平等、機会の平等など)

<正しいことと、善いことの違い>
本書ではあまり詳しく書かれていなかったため、私の考えで補足いたします。

 「善い」:上記価値観が最大限実現されている状態、あるいはそれを達成しようとするその人柄、動機のこと
 「正しい」:善いことを実現するための行為、または自らが決めた道徳的規範を守ること

例えば、人助けは正しいことで、その結果みんなが幸福になったらそれは善いことである。一方、嘘をつくのは正しくないが、その結果みんなが幸福になったらそれは善いことである。

なお「正義」と「正しい」の違いは以下ですが、ここでは同義として(正しいを正義の意味合いで)扱います。

 「正義(justice)」:道徳的に正しいこと
 「正しい(right)」:道徳的か否かは問わず正しいこと。例えばクイズの正解もright。


<先祖の罪を償うべきか>
ホロコーストや、先住民への酷い仕打ち、奴隷制度など、当時関わり合いのない現在の人が、先祖が行ったことに対して謝罪や賠償をすべきかという問題がある。

こんにちでは、政治の目的は美徳を育てることだという考えは、多くの人にとって奇異であり、危険ですらあると考えられており、政策に美徳を持ち込まないようになっている。 また、自己は社会的、歴史的役割や立場から切り離せると考え、過去の過ちに対して賠償するという姿勢に否定的な国が多い。

しかし、自分は重荷を負った自己であり、自ら望まない道徳的責務を受け入れる存在であると考えない限り、上記問題に答えることはできないという。 サンデル氏を含むコミュニタリアンは、ロールズが述べるような自由に選択できる負荷なき自己という理想や、カントの正しさは善に優先するという意見をはねつけ、目的や愛着を捨てては正義を論じることはできないと主張した。

例えば、二人の子供が溺れていて一人しか助ける時間がないとする。一人は自分の子供、もう一人は赤の他人の子供、公平を期するためにコインを投げるべきだろうか。 多くの人は自分の子供を助けてどこが悪いというだろう。この反応の陰にあるのは親にはわが子の幸せに対する特別な責任があるという考えである。

愛国心についても、国家への愛は批判の入り込む隙のない美徳だと見る人もいれば、盲目的従順、戦争の根源と見る人もいる。 功利主義やリベラリズムの考えに従えば、隣の貧しい国に分け与えないのは正しくない筈である。しかしそうなっていないのは、先ほどの親が子供を助ける原理と同じでもあるし、 自国民として互いに特別な繋がりを持っているからである。すると、先祖が行ってきたことに対しても歴史的な結びつきがあると考えるのは妥当なことである。

<忠誠は普遍的道徳原理に勝るか>
家族が犯罪を犯したときに、警察の捜査に協力するか否かという問題。多くの状況において、捜査に協力することが正しい行動に思われる。しかし、家族への忠誠を貫くという気持ちも道徳的心情としては理解できる。 どちらの選択をしたとしても、道徳的ジレンマを抱えるということは、正しいことと美徳が必ずしも一致しないばかりか、美徳を切り離して考えることが出来ないことを意味している。

<道徳は政治に関与できるか>
先ほど説明したように、道徳が政治に関与すると、本人が望まない道徳的行動を強いられ、また宗教的論争に巻き込まれる可能性があり、危険であると考える人が多い。 しかしサンデル氏は、道徳が関与したとしても相互的尊重に基づいた政治が可能であり、そのためには、これまで慣れてきた生き方と比べて活発で積極的な市民生活が必要であると考える。 私は、これはアリストテレスの考えに近いのかと思いました。

■感想
サンデル氏の主張だけではなく、これまでの哲学者の考え方も分かりやすく説明されており、非常に勉強になる。この様な議論に明確な答えはなく、こういった考えもあるのだと理解すること、自分なりに考え抜くことが大切なのだと思いました。 なお私は、サンデル氏含むコミュニタリアンの考え方に共感するところが多かったです。

ちなみにサンデル氏は以前、NHKの番組にてアメリカの広島・長崎への原爆投下は正当化されるのかという質問に対して、以下の様に答えていました。

「それは難しい質問ですね。私は明確で決定的な答えを持っていません。原爆の投下は不当な行為です。それによって日本は本土決戦を免れ、日米双方で多くの命が救われたといいます。日本とアメリカがすべきことは、歴史の責任をきちんと認識することです。そして相互に謝罪し和解することが重要だと思います」

つまりサンデル氏は、より多くの犠牲者を増やさないためには、広島・長崎の人たちの犠牲は必要だったというわけです。これは広島・長崎の人たちを戦争停止の手段に用いたとサンデル氏は考えたのですから、例のトロッコ問題に置き換えると、橋の上から太っている人を落として電車を止めるという状況に近いと思います。 サンデル氏の発言を受け違和感を持った日本人は多かったようですが、その理由は、橋の上から太った人を落とすことが正しくないと思った理由と同じだったのではないかと思います。

なお、これを擁護すると「日米双方で多くの命が救われたという意見もあります」と言いたかった可能性もあります。 ただ、多様な意見がある中でこの意見を取り上げるということは、少なからずサンデル氏の主張が反映されていると誤解されるのは当然だと思いますので、もしこれがサンデル氏の主張ではなく、ただの一つの意見として取り上げたかっただけだとしたら、この言い方はサンデル氏の落ち度だったと言えるでしょう。




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