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■本、著者の情報
<作者>夢野 久作
<出版日>1976/10/10
<出版社>株式会社 角川書店
なお最初に発行されたのは、1935年1月に松柏館書店から。
■ドグラ・マグラの意味
『ドグラ・マグラ』とは、作中に登場する物語の名称である。それは正木教授の自殺後、ある若い大学生の患者が一気呵成に書き上げ、若林教授に提出したものとされる。
「ドグラ・マグラ」という言葉は、明治維新前後まで長崎地方で使われていた、切支丹伴天連(キリシタン・バテレン)の幻魔術を指す方言と言われており、
その語源は「堂廻目眩(どうめぐりめぐらみ)」や「戸惑面喰(とまどいめんくらい)」にあるという。
若林教授はこの物語を「一種の超常識的な科学物語」と評しているが、彼が語るその概要に照らせば、読者が今まさに手にしているこの一冊こそが、作中の『ドグラ・マグラ』そのものであることが示唆されている。
■登場人物
・私:主人公。九州帝国大学の精神病科の病室で目覚める。物語が進むにつれて自分の事を呉一郎と思い始めるが、真実は明かされていない。
・呉一郎:伝説的な絵師・呉青秀の血を引く美青年。母の千世子、許婚のモヨ子を殺害し、正木博士の「心理遺伝」実験の検体となった。
・呉モヨ子:呉一郎の従妹にして許嫁の美少女。私の隣の病室にいる。
・呉千世子:呉一郎の母で、八代子の妹。
・呉八代子:呉一郎の伯母で、モヨ子の妹。
・正木敬之:九州帝国大学精神病科教授。「狂人の解放治療場」を設立。その後に自殺した狂気の天才。
・若林鏡太郎:九州帝国大学法医学教授。正木の実験を継承して主人公を監視。
■あらすじ
1. 記憶なき目覚めと隣室の女
大正末期、九州帝国大学医学部精神病科の独房にて、一人の青年が「ブウウ――ンンン――」という時計の羽音で目を覚ます。
彼は自身の姓名も過去も一切を忘却していた。 やがて隣の独房から、彼を「お兄様」と呼ぶ若い女(モヨ子)の声が響く。
彼女は「自分はあなたの許婚であり、挙式前夜にあなたに殺害されたが、墓から生き返ってここへ来た」という、にわかには信じがたい訴えを繰り返す。
2. 二人の博士と謎の資料
混迷する青年の前に若林教授が現れる。若林はかつて同教室を主宰し、一ヶ月前に怪死した正木教授の遺志を継いで青年の治療に当たっていると説明する。
青年は正木が遺した膨大な資料群を読み進めることになる。そこには以下のような奇怪な論文や物語が記されていた。
「胎児の夢」: 胎児は母親の胎内で生命進化の歴史を夢に見るという説。
「脳髄論」: 脳は思考の主体ではなく、全身の細胞が思考し、脳は単なる電話交換局に過ぎないという説。
「空前絶後の遺言書」: 正木博士の死の真相と、彼が仕掛けた壮大な実験の告白。
3. 千年前の呪い「心理遺伝」
物語はさらに、千年前の中国・唐時代の絵師「呉青秀(ごせいしゅう)」の因縁へと遡る。
呉青秀は、愛する妻が死んで腐敗していく様を狂気とともに描き上げ、その絵巻物は「呉家」に代々継承された。
正木の主張によれば、その狂気と殺人の記憶は「心理遺伝」によって子孫の呉一郎(青年)へと受け継がれ、それが許婚のモヨ子を殺害する動機になったという。
4. 混迷を極める真相
死んだはずの正木教授が突如として生身の姿で現れ、若林教授と互いの理論や策略をぶつけ合う論争を展開する。
青年は、自分が「正木と若林の学術的野心の実験台」にされているのか、あるいは「自らの妄想の中にいるのか」の判別不能な状態に陥る。
正木は、青年こそが正木自身の不義の子であり、一連の凄惨な事件はすべて「心理遺伝」を証明するために正木が仕組んだ壮大な演劇であったことを示唆する。
5. 結末:無限の迷宮
物語の終局、青年はついに「自分は呉一郎に違いない」と考えるようになる。そうして気が付くと、元居た病室に戻っており
これは「胎児の夢」なのであると考えるに至る。そして様々な記憶が頭を巡り、最後に呉青秀の顔が現れ、私が叫ぶ間もなくその姿は消えてしまった。
そして「ブウウウ――ンン―――」という羽音が鳴り響くのであった。
■時系列
「私」が目覚めたのは大正15年11月20日のことであり、若林教授からは「正木教授は一ヶ月前に自殺した」と告げられる。
しかしその後、死んだはずの正木本人が現れ、若林の言葉は偽りであると反論する。
この錯綜した状況の正体は、11月20日にいるはずの「私」が、実は一ヶ月前の10月20日に起きた出来事の幻覚を追体験しているという驚くべき入れ替わりであった。
この幻覚の過程で、正木が自殺に至った戦慄の経緯が白日の下に晒される。
だが、この11月20日の現実さえも、実は「胎児の夢」の中の出来事に過ぎないという可能性が浮上する。
すなわち、父・呉一郎が辿った悪夢のような運命を、その胎児が追体験していることを示唆しているのだ。
こうして、呉一族の悲劇は遺伝の鎖に縛られたまま、永遠に繰り返されることが暗示される。

■胎児の夢, 脳髄論, 心理遺伝は実在するのか
これらはいずれも実在する説ではありませんが、実在の理論に着想を得ている部分があると考えられます。
胎児の夢
作中では「胎児は母親の胎内で、単細胞生物から人間へ至る数十億年の進化の記憶を夢に見る」とされています。
これは19世紀の生物学者エルンスト・ヘッケルが提唱した「反復説(個体発生は系統発生を繰り返す)」がベースになっていますが、
実際に胎児が進化の記憶を夢を見ているかは分かっていません。
脳髄論
脳髄論の実在の根拠は以下のとおり説明されているが、証明されていません。
脳髄論の着想は、東洋医学的観点として「心(こころ)」を脳ではなく心臓や腹(腸)にあるとする身体観が、
著者の「脳以外が思考する」という発想に影響を与えた可能性があると考えられます。
第一の根拠:脳を持たない単細胞生物や下等動物の存在
アメーバ等の生物が、脳を欠きながらも餌を求め危険を避ける「意志」ある行動を示す事実は、知能の本源が脳ではなく細胞そのものに宿っている証拠とされる。
脳は進化の過程で、巨大化した多細胞生物の各器官を連携させるために後天的に作られた「電話交換局」に過ぎない。
第二の根拠:高等動物における「反射作用」
熱に触れて瞬時に手を引く際、意識(脳)が介在する前に肉体が判断を下す事象は、末梢組織が独立した思考能力を持つことを示唆する。
第三の根拠:膨大な「記憶」の容量
数億年の生物進化の全行程を記録するには、脳という単一器官では不十分であり、全細胞が分担して記憶を保持していると説く。
これらが結びつき、胎児が胎内で進化の夢を見る「胎児の夢」や、先祖の記憶が子孫を支配する「心理遺伝」の理論を補強する。
正木にとって脳は、全身の細胞が合議した結果を「意識」として映し出す受像機に留まるとする
心理遺伝
心理遺伝とは「先祖が経験した恐怖や強い情動が、子孫に影響を及ぼす可能性がある」とする考え方です。
この概念は2013年にアメリカの研究チームが行った動物実験によって注目を集めました。
実験では特定の匂い(サクラの香り)と電気ショックを同時に与え続けたマウスの子や孫が、実際にはその経験をしていないにもかかわらず、同じ匂いを嗅ぐだけで恐怖反応を示すことが確認されました。
この結果から、恐怖に関する情報が世代を超えて伝達される可能性が示唆されています。もちろん本書が発行されたときはこの実験より遥かに前ですが、後になってこの様な示唆が得られるのはとても興味深いです。
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